『終ノ空 Remake』レビュー
終ノ空:哲学者と狂人
誰もが知るエロゲー界隈には、ある伝説が流れている。みんな口を揃えて「素晴日」は神ゲーだと言う。
だが、その「神ゲー」たる所以を尋ねると、返ってくる答えはどこか噛み合わない。
「素晴日はグロ CG がたくさんあるんだよ!」
「性転換フタナリの HCG もあるぞ!」
「暴力と性の要素が盛りだくさん!」
これを聞くと、ここで言う「神ゲー」はただ「過激なエロ」のせいで神ゲー扱いされているだけなのでは、と思えてくる。しかし「素晴日」に関してはそうでもないらしい。ネットでこのゲームの感想を検索すると、必ずと言っていいほど「非常に哲学的だが、要領を得ない」感想文が山ほど出てくる。
「非常に哲学的」というのは、多くの人が「素晴日」をプレイした後に長文を残し、その中で古代のクトゥルフ神話から後年の並行世界まで、ありとあらゆる内容を縦横無尽に引用し、あたかもこのゲームの深さが巨大な哲学書並みであるかのように語るからだ。
しかし「要領を得ない」のは、俺がそんな文章を読み終えても、結局このゲームがどんな物語なのか最後までわからなかったことだ。ただ、このゲームの脚本家が SCA 自だということだけは覚えた。
後になって好奇心から「素晴日」を試したことがある。当時日本語は読めなかったし(今も読めないが)、やったのは漢化版で、2時間ほどでゲームを閉じた。理由は簡単:つまらない。
このゲームの多くの会話は、完全に「無理やりな哲学論調の無脳な植え付け」で、実際には二人が雑談しているだけなのに、大量のいわゆる「哲学的内容」をぶち込んでいるだけ。逆にゲームの主軸は主人公がうろついて会話するだけで、それ以上ではない。
当時の俺が求めていたのは「超展開」と「世界を救うレベルの戦い」で、「素晴日」は明らかに俺の好みではなかった。
その後、幸運にも「素晴日」と同じ脚本家の『サクラノ詩』をプレイする機会があった。その頃にはもう中二病丸出しのバカ設定ゲーには飽きていたこともあり、『サクラノ詩』にはかなり高い評価を与えている。『サクラノ詩』は物語として強い印象を残した。天才同士の主人公たちの会話、どこか「傷仲永」的な展開、そして最後の少し切ない結末。ゲーム中の哲学的な議論も今なお記憶に残っている。特に「美術」と「数学」の関係についての話は、女教師の前で見事にイキるのに使えた。
そんな風に『サクラノ詩』には良い印象を持ち、評価もしているのだが、ネット上の『サクラノ詩』の評価を見て呆然とした。なぜなら、見覚えのある光景がまた目の前に現れたからだ。
ネット上の『サクラノ詩』の好評は、相変わらず大量の哲学的な文字で埋め尽くされている。ゲーム中のやや中二病的な会話、ゲーム内で引用された日本文学の断片、そして幻想に満ちた自己陶酔。
もちろん、ゲームの筋書きについての紹介はほとんどない。中にはあらすじすらないものもある。聞かないでくれ、聞いたら「ネタバレ回避」だ。しかし、ネタバレを避けたとしても、ゲームがどんな物語を語っているのかは説明できるはずだ。そうでなければ、お前がこのゲームをどれだけ褒めているかだけを見て、何を語っているのかもわからないのに、どうやって自分に合っているか判断しろというのか?
これで思い出したのは、かつての「素晴日」だ。同じ感覚。そしてすぐに合点がいった。『サクラノ詩』を通して「素晴日」を見れば、それがどんなゲームかわかるはずだ。
もちろん、今に至るまで、俺は「素晴日」を再プレイしていない。
その状況が変わったのは先月、2020年末のこと。「素晴日」が「HDリマスター典蔵版」を再リリースしたのだ。内容は原作に加え、『終ノ空』というゲーム、そして『終ノ空 Remake』という「リメイク版」も含まれている。
『終ノ空』については耳にしたことがあった。「素晴日」の最初の数章は「終ノ空」というタイトルで、本来は『終ノ空』のリメイクを作る予定だったのが、何らかの理由で頓挫し、「素晴日」として一部の筋書きを取り込んで完成した、という話だ。もちろんその筋書きは『終ノ空』と同一ではなく、多くの改変が加えられ、主人公の設定も女性に変更されている。一部のキャラクター名は残されているが。
だが、俺がより興味を惹かれたのは『終ノ空』というゲームそのものだ。

このゲームは1999年に発売された。俺は「素晴日」を絶賛する人々が『終ノ空』を大いに持ち上げ、「素晴日」の前身であり、それ自体が画期的だと言うのを何度も見てきた。しかしネット上で見つかるこのゲームの情報はごく僅かで、崩壊した OVA と、散発的なゲームのパッケージ画像、そして意味不明なスクリーンショットくらいだ。
幸い、このゲームは今回の「典蔵版」に収録されている。『終ノ空 Remake』ではなく、オリジナルの『終ノ空』が。
試しにちょっと見てみたが、正直かなり辛い。

画風は当然、前世紀に流行った日本の萌え系画風だ。この画風は Leaf の古参がよく使っていたもので、池上茜もパクリだと言われたことがある。画風の話はさておき、驚きはゲーム自体のシステムにある。これは Flash で作られたゲームなのだ……セーブも当時の Flash の技術を使っていて、その無骨なセーブ感覚は PowerPoint で作った「ゲーム」と同じ感覚だ。音楽も非常に単調で、いくつかの節が繰り返し流れるだけ。会話もかなり少なく、数回喋ると選択肢。ボイスなんて論外だ。ゲームは萌え系画風なのに、ずっと「ぞっとする」ような恐怖の雰囲気が漂っている。まあこれは不思議なことではない。前世紀の日本のギャルゲーはみんなそうだった。グロテスクな要素、単調な音楽、暗い背景、そして大胆な展開。あの時代の印だ。もっと有名な『3Days』を覚えているか?あれも同じだ。ゲームのテキストボックスはたかが2、3行。しかもキーボードでは一切進められず、マウスしか使えない。
そう、マウスの左クリックだけで。プレイしているうちに、クリアする前にマウスが壊れるかもしれない。
全ては理解できるとしても、このゲームを続けるのはあまりに辛い。ネット上で「素晴日」に便乗して『終ノ空』を持ち上げる連中は、実はこのゲームを全然やっていないんじゃないか、ちょっとかじっただけで一緒に持ち上げているだけなんじゃないか、と疑い始めたほどだ。
そして好奇心から、俺は『終ノ空 Remake』を開いた。
言うまでもなく、目の前に全く新しい世界が広がり、いつの間にかゲームをクリアしていた。そして多くの感慨が残った。
『終ノ空』は1999年のゲームとして、この設定と語り口は確かに時代を超えた先進性がある。SCA 自がずっとこのゲームをリメイクしたがっていた理由もよくわかる。すでに完全な物語であり、ただ1999年の会社の開発力のせいで、あるべき姿を完全には提示できなかっただけだ。
そして2020年最後の月に現れた『終ノ空 Remake』こそが、このゲームの完全体であるべきだ。

ゲームの話をする前に、まずこの『終ノ空 Remake』が原作から何が変わったかを見てみよう:
- 全キャラクターにフルボイス
- ほぼ全てのキャラクターを再描画、制服も再デザインされ、よりゲームの筋書きに即したものに
- 新しいエンジンに変更(どう設計しても Flash よりはるかにマシ)
- ゲームのルートは原作と同じだが、メインメニューの「砕けたパズル」方式で表示される。つまり一つのキャラクタールートが一つのピースに対応し、全てクリアするとパズルが完成する
- 音楽は前作と比べてリミックスされ、元の雰囲気を保ちつつ、前作同様の不気味さも持っている
- 新しい CG、背景画像は前作と同じだが HD 化されリメイクされている
- ゲームは原作同様4:3の比率を維持し、流行の16:9にはしていない。むしろ懐かしさが増している(もちろん手抜きの可能性もある)
- 会話パートが大幅に拡張され、前作では数回喋るとすぐ進んでいたが、リメイク版では大量の新規テキストが追加され、キャラクター造形が深まっている
ゲーム全体が前作をベースに大幅に刷新・改善されている。前作はむしろデモやプロトタイプのようで、この『終ノ空 Remake』こそが SCA 自の実現したかった完全版だ。
ゲーム全体について話したので、次は細部、例えば……筋書きについて話そう。

間違いなく、『終ノ空 Remake』の筋書きは原作と一致している。ある時間軸で起こる出来事を、異なるキャラクターの視点を通して語り、最終的にプレイヤーが全体像と真実を掴む構成だ。ゲームには水上行人、若槻琴美、高島ざくろ、横山やす子、間宮卓司の5人の視点があり、最後に水上行人の2つの ED がある。
視点:水上行人
水上行人は幼馴染の若槻琴美に起こされ、しばらく無駄話をした後、学校へ行く。学校で高島ざくろという女子生徒がいじめの末に飛び降り自殺したと聞き、驚きはしたが特に何も思わなかった。若槻琴美は剣道部で稽古し、その後水上行人と一緒に帰宅する。
翌日、学校で「大予言」が流れ始める。「ノストラダムス」によるもので、1997年7月に世界が終末を迎えるという。恐怖の大王が天から降りてきて人類を終わらせる。どう見てもデタラメだが、信じる人が増えていく。
学校にはもう一人奇妙な人物がいる。音無彩名だ。よく屋上で空を見て、「終ノ空」を見ていると言うが、誰にも見えない。しかも哲学的な言葉ばかりで神出鬼没。水上行人は彼女を変人だと思ったが、気にしなかった。
水上行人が学校をぶらついていると、プールのそばで一人のキモい男に出くわす。間宮卓司だ。挙動不審だが臆病で、水上行人は無視して立ち去った。
数日後、間宮卓司は性格が一変し、授業中に演説を始め、教師に食ってかかる。「世界の終わりが来る。お前たち凡人はみな裁かれる」と。

その後、学校はどんどんおかしくなっていく。間宮卓司が唱える1997年7月の世界終末論を信じる者が増え、彼を救世主と呼び、救済を求める者まで現れる。
やがて水上行人は、幼馴染の若槻琴美が失踪したことに気づく。
水上行人は方々を探し回り、最後に学校のプールの下水道で全裸の若槻琴美を見つける。彼女は後輩の横山やす子に張り形のディルドを着けられて犯されたばかりのようだった。
最終的に水上行人は若槻琴美を背負って狂った学校から逃げ出し、二人は想いを打ち明け合い、一発やって物語は終わる。
視点:若槻琴美
若槻琴美の物語は水上行人と大差ない。最初に水上行人を起こしに行き、学校で奇妙な終末の噂を知る。ただ違うのは、若槻琴美が飛び降り自殺した高島ざくろと会話しており、自殺前日に様子がおかしいと気づいていたことだ。しかし特に何も言わなかった。もちろん音無彩名にも会ったが、変だと思っただけで何も言わなかった。

翌日、誰かが飛び降り自殺したと知って若槻琴美はやはりショックを受けたが、後輩の横山やす子がなかなか慰めてくれるので、気にしないことにした。
その後の展開はお馴染みだ。間宮卓司の性格が一変し、全校が「終末予言」に覆われる。そして自分は得体の知れない方法で誘拐され、目を覚ますと後輩の横山やす子にレイプされ、水上行人に救われる。物語はそこで終わる。
視点:高島ざくろ
高島ざくろは学校の校妓だった。
理由は両親の事業失敗で多額の借金を抱え、彼女を捨てたからだ。高島ざくろは借金を返せず、ヤクザに支配され、言いなりになって校妓として金を稼ぐよう強要された。
しかしすぐに高島ざくろが校妓だという噂を学校の不良どもが知り、彼らも高島ざくろに様々なことを要求し、陵辱を始める。高島ざくろはすぐに自分の人生に絶望した。両親に捨てられ、身体を売られ、屈辱を味わい尽くす。そんな絶望の中で、彼女は希望のようなものを再び見る。

幻覚を見た。空に光が見える気がした。彼女は1997年7月の世界終末予言を信じ始め、自分はこの世の苦しみを味わい尽くしたから、きっと空へ飛べるのだと感じた。同じ幻覚を持つ「親友」まで見つけた。
そして「親友」たちに見送られ、高島ざくろは屋上から飛び降りた。死の瞬間、彼女は解放され、空の向こう側に到達したと感じた。
視点:横山やす子
横山やす子には悲惨な過去がある。母に捨てられ、父にレイプされ、暗い幼少期が独立心と残酷な性格を育んだ。兄と共謀してクソ親父を殺し、自由を手に入れた。その後養子に迎えられ、過去を隠して「良い友達」になった。しかし暗部では過去も忘れず、昔の裏社会の友人たちも忘れず、自分の利益のために暗躍していた。
だが、ある人物の出現で全てが変わった。若槻琴美だ。横山やす子は若槻琴美に一目惚れした。同性であるにもかかわらず。
その後、横山やす子は若槻琴美の学校、クラス、そして剣道部の活動場所を突き止め、自分の実力で潜入した。愛する人に少しでも近づくために。
しかしすぐに学校で狂った出来事が起こり、横山やす子は高島ざくろの校妓の裏に暴力団が関与していること、そして彼女の自殺が暴力団の制御不能に関係していることに気づく。暴力団が若槻琴美に危害を加えるかもしれないと感じた横山やす子は、高島ざくろの自殺後、自ら暴力団と接触し目的を探った。すると暴力団は逆に、高島ざくろの代わりに校妓になれる人物を学校から差し出せと要求し、一目で若槻琴美を気に入った。
横山やす子は愛する人を差し出すわけにはいかない。彼女は機転を利かせ、学校の変人「音無彩名」を思い出し、彼女を差し出した。
音無彩名は自分が暴力団に売られたことに全く気づかず、喜んでついていった。暴力団の本部に着き、レイプしようとしたところ、レイプしようとした男のペニスが射精を止められなくなり、精液が尽きると血を吹き出し、最後は無残に死んだ。暴力団のボスは音無彩名に強力な精神力を感じ、人間ではないと察したが、時すでに遅し。音無彩名の精神攻撃で暴力団全体が狂気に陥り、死ぬ者、狂う者。横山やす子はその一部始終を目撃し、狂ってはいたが難を逃れた。

学校に戻るとさらに狂ったことが起きていた。学校に「救世主」が現れ、世界終末を信じる集団ができていた。「救世主」とは間宮卓司で、大勢を扇動していた。さらに恐ろしいことに、横山やす子は間宮卓司が精神攻撃を使うのを目撃した。すでに「妖怪」を見たことがある彼女は、今さら何を見ても不思議ではない。間宮卓司に超能力があると信じるしかなく、流れに乗って彼に従った。
間宮卓司が救世主になると、誰かが謁見に来て、若槻琴美という女が気に入らない、救世主に「浄化」してもらうべきだと言い出した。

「浄化」とは輪姦のことだろう。横山やす子はその手口をよく知っている。愛する人を救うため、彼女は自ら名乗り出て、若槻琴美を捕まえてくると言った。
そして若槻琴美を誘拐し、近くに閉じ込めた。一人で間宮卓司に会い、自分が捕まえたこと、そして救世主様のために自分が代わりに「懲罰と浄化」を済ませたことを伝え、救世主の同意を懇願した。
救世主が口を開く前に信者たちが反対した。「お前は何様だ、勝手に浄化したのか、不忠か?」そこで横山やす子は、自分が一人で若槻琴美の代わりに「受刑」することを申し出て、救世主に許しを請うた。救世主は同意し、横山やす子はその場の全信者に輪姦された。耐え抜いた後もなお不服な者がいたが、横山やす子は暴力団の指へし折り方式で忠誠を示した。救世主は全く興味なさそうに黙認した。

その後、横山やす子は一人で張り形ディルドを着けて愛する若槻琴美とのセックスを楽しみ、若槻琴美は駆けつけた水上行人に見つかって救出された。

横山やす子は一人地面に倒れ、兄と抱き合った。彼女はもともと生きる意味を失っていたが、若槻琴美の出現が命の灯火を与えた。愛する人を救うために全力を尽くした。もう死んでも悔いはない境地だろう。物語はそこで終わる。
視点:間宮卓司
間宮卓司の物語は最初から混沌としている。彼は孤独な人間で、精神的に非常に不安定だった。内向的で臆病、人と話すことを恐れ、よく「魔法少女」と会話できると妄想していた。どう見ても「気持ち悪いオタク」だ。学校のプールの下に隠れて自分の独立空間とし、壁に脳内幻想の「魔法少女リルル」を落書きし、独り言で彼女と話していた。
学校の終末の噂を聞き、高島ざくろの自殺を知った。そして高島ざくろをいじめていた不良たちが自分もいじめていた。彼は怯え、死を恐れ、誰にも会いたくなかった。ただ自分が幻想する「魔法少女」と話したかっただけだ。

しかしある日、壁の「魔法少女」が突然本当に目の前に現れた。彼女の体が実体化し、触手のような魔法の杖を出して間宮卓司を救うと言い、ゆっくりと近づいてきた。そして最後には「魔法少女」と間宮卓司は徐々に一体化し、彼の脳の一部を食い尽くした。
それ以来、間宮卓司はもう以前の間宮卓司ではなかった。狂った「哲学者」となり、「世界終末」を広める教祖となった。
教室で公然と演説し、人類の罪と「終末」の到来を説いた。自分をいじめていた不良たちに対して、「魔法少女」から授かった精神攻撃の力を使えるようになり、その力で学校に大量の「信者」を獲得し、自らも信者たちの「救世主」となった。

間宮卓司はますます狂っていった。目には奇妙なものが見える。歩く幽霊、教室の怪物、プールで血を噴く女性の死体、そして自殺後血まみれの高島ざくろ。彼は気にしなかった。ただもう一度大好きな「魔法少女リルル」と話したかった。しかし壁の落書きはもう応答しなかった。

信者たちは間宮卓司に汚れた人間を罰するよう求めた。誰かが若槻琴美を罰するべきだと提案し、横山やす子という少女が名乗り出た。その後、自分が代わりに罰を受けると言い、全員に犯されてもいいと言った……
めちゃくちゃで、ごちゃごちゃ。間宮卓司は全く気にしなかった。ずっと壁の魔法少女の落書きを見つめ、彼女が再び応答してくれることを願っていた。

しかし応答はなかった。
世界終末の日がついに来た。信者たちは学校の屋上に立ち、永遠の命を得るために次々と飛び降りた。横山やす子も屋上に来て、一人立つ間宮卓司を見た。間宮卓司は横山やす子が自分を完全には信じていないと感じたが、彼女もまた命にそれほど未練がない様子で、同じように屋上から飛び降りた。

最後に間宮卓司は空の光、「終ノ空」と呼ばれる存在を見つめ、同じように飛び降りた。地面に落ちる前に、彼はようやく恋い焦がれた「魔法少女リルル」に会い、物語はそこで終わる。
エンディング1:
7月が終わり、世界終末は来なかった。水上行人は屋上に来て音無彩名に会い、二人はしばらく哲学的な会話を交わす。世界終末そのものについて、世界は存在すべきかどうかについて議論し、音無彩名は水上行人に、実は7月が世界終末というのも真実だと示唆する。なぜなら一つの世界はすでに滅びたからだ。今のこの世界についてはあまり語らず、水上行人と一発やって、困惑する水上行人と意味深な結末を残した。

エンディング2:
7月が終わり、世界終末は来なかった。水上行人はいつも通り学校へ行き、音無彩名を見かける。二人はしばらく哲学的な会話を交わす。世界終末そのものについて、世界は存在すべきかどうかについて議論し、音無彩名は水上行人に、実は7月が世界終末というのも真実だと示唆する。なぜなら一つの世界はすでに滅びたからだ。会話の途中で水上行人は突然幻覚を見た、あるいは幻覚から目覚めた。目の前の音無彩名が徐々に若槻琴美の姿に変わり、自分がさっき音無彩名とした会話も幻覚のように存在しなかったかのようだ。目の前には若槻琴美だけ。さっきのは幻覚だったと思う間もなく、目の前の若槻琴美が音無彩名にしかない不気味な笑みを浮かべ、音無彩名にしか言えない不気味な言葉を口にし、どう見ても不快な結末を残した。

マクロに見れば、『終ノ空』の筋書きは難しくない。気持ち悪いオタクが、誤って超自然的な力に触れて狂人となり、学校にカルト的な組織を築き、世界終末論を広め、最後に信者たちを引き連れて飛び降り自殺する話だ。
『終ノ空』のマルチ視点叙事は物語の造形に大きく寄与している。もし単純に物語をそのまま語っていたら、きっと大した見どころはなかっただろう。この多視点であり、しかも視点が遠くから近くへと移っていく構成は、まるで玉ねぎの皮を剥くように徐々に真相へと近づいていく感覚がある。
以前も言ったように、『終ノ空』は『サクラノ詩』と似ており、基本的な枠組みの物語を語りながら、大量の雑学や哲学的な内容を盛り込んでいる。「世界の終わり」そのものの存在、「人間とは何か」の論証などなど。ただ、こうした内容はあくまで内容上の付け足しであり、理解できてもできなくても物語全体の構造を理解する妨げにはならない。これがSCA自の書くゲーム脚本が最も優れているといつも思う点だ。主題の物語はいつも分かりやすく、しかし付け足された「哲学的なスパイス」が主題の物語をさらに昇華させる。この物語の書き方によって、逆に自分のゲームに一定の「やり込み要素」が生まれる。一度目は物語は分かったけれど中の哲学は分からなかった、ならば二周目で改めて味わえばいい。

『終ノ空』のあの「神秘的な力」は実は全く理解が難しくない。つまりクトゥルフ神話だ。間宮卓司を狂気へと導いた主な原因は、ひとえに「ニャルラトホテプ」(そう、おなじみのニャル子さんだ)に似た存在で、脳を食い、人間の精神を攻撃し、San値を下げるなどなど。これはゲーム内で間宮卓司が見る「魔法少女リルル」が手に持つ魔法の杖とも対応している。ゲーム内のもう一人の神秘的な人物「音無彩名」もまた、実はクトゥルフ神話のとある怪神だ。ただしゲーム内で彼女は、間宮卓司に影響を与えたあの怪物とは同一ではないが、非常に近い同類だと自称している。音無彩名が暴力団を虐殺するとき、暴力団の首領は上海で似たような怪物を見たと言っていた。そしてこの設定は腫れ上がった女という「ニャルラトホテプ」の化身と一致しており、これもゲーム内の明白な暗示だ。

この点を総合すると、ゲームをよりよくまとめられる。クトゥルフ神話の怪物(外なる神)が学校のむさ苦しいオタクの脳を攻撃し、彼に憑依して精神を操り、カルト教団を導いて集団自殺事件を引き起こした、と。
ただ、大いにツッコミたいのは、名高いクトゥルフ神話の神が、なぜこんなにスケールが小さいのか。日本の学校だけで暴れているとは。World of Warcraftの類似設定である「古の神々」を見習ってほしい。どれも大物を狂わせ、どれも巨大なカルト教団を創設しているではないか。

とはいえ、これはただのエロゲーなので、あまり多くを望まないでおこう。
『終ノ空』の結末はオープンエンドだが、例外なくすべてがもう一人のキャラクター「音無彩名」を指し示している。彼女自身も「混沌の存在」に似ており、強力な精神力を有している。最後の結末はむしろ恐怖の雰囲気を醸成する意味合いが強い。この「名状しがたい混沌の神々は常にあなたのそばに潜んでいる」と教えてくれる。次に狂うのはあなたの彼女かもしれないし、あなた自身かもしれない。
『終ノ空』というゲームが1999年にこのスタイルの脚本を書けたのは本当にすごい。そしてこの1999年のゲームには、後に多くのゲームが模倣した影が見て取れる。特にこの「クトゥルフ神話」を引用するパターンは、某Moonstoneの呉老二がメインライターのゲームで全く同じように表現されている。ゲーム自体が元々ホラーを主軸にしたゲームで、初期の粗末なFlash制作、不気味な音楽、各種「アニメ学3年」レベルの怪物モデリングが、かえってより怖く見える。そして『終ノ空 Remake』はその大部分をリメイクしている。画風はより精细になり、ヒロインもより萌えになり、ボイスの後押しもあって「それほど怖くない」ものになった。それでも今回のRemakeは原作の品質を保証し、原作では表現しきれなかった内容をすべて表現している。原作が80点なら、Remake版は足りなかった20点を補ったと言える。
ここでゲームのCVを褒めなければならない。本当に上手い。特に秋野花が演じる横山やす子は、キャラクターの特性を見事に演じ切っている。A面とB面の二面性のある性格の演じ分けは完璧だ。

『終ノ空 Remake』が発表されてから、ネット上で多くの評価を見かけた。どれも以前の「素晴日」や『サクラノ詩』への評価と同じパターンで、哲学や自己陶酔が盛りだくさん。誰もかれもがSCA自に親しげに近づき、まるで彼と談笑しているかのよう。しかもゲームが一体どんな物語を語っているのかには一切触れない。彼らが語れないのか、語りたくないのかは分からない。ただ思うのは、SCA自の作品は決して「哲学向け」ではないということ。彼自身のストーリーテリング能力は非常に優れており、ゲーム内の伏線の対応もよくできている。中の「哲学」は彼の個人的な趣味で追加されたスパイスに過ぎない。なぜ多くの人がいつも「哲学」にこだわるのか。そんなことを語ることで自分が一段上に見えるとでも思っているのだろうか。SCA自は優れた脚本家であり、優れたギャルゲー業界人でもある。しかし哲学者ではないし、アーティストでもない。彼を神格化する必要はないし、ましてや「持ち上げる」か「けなす」かで間接的に自分を持ち上げるべきでもない。
もちろん、ゲーム内のHCGのことを言えば、確かにかなり「哲学的」だ。クトゥルフ神話には性別の象徴がないことを教えてくれる。

まるで『終ノ空 Remake』の間宮卓司のように、彼自身はただのオタクで、脳を侵略された後もやはりオタクだ。ただ、哲学を空論できる口を得た途端、「救世主」になってしまった。彼の言葉を信じたい人々から見れば彼は哲学者であり、水上行人のように彼を全く相手にしない人から見れば彼はただの狂人だ。
「哲学者」と「狂人」は時に紙一重だ。まるで、哲学の面からゲームを無脳に持ち上げ、実のところ自分の趣味を高めようとする連中を見る時の私のように。
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