『終のステラ』レビュー
星光の果て
年初に Key の親会社 Visual Arts の事業計画 を読んだ。社長の「馬場隆博」が、業界について意外なほどしっかり把握していたのが印象的だった。海外、とくに中国語圏市場の巨大なポテンシャルを理解していて、中国語圏で自ら商標を登録し、現地の代理店やパートナーを探している。同時に、従来の「ギャルゲー」の時代はほぼ終わっていて、お色気だけで市場を広げるのは難しく、全年齢路線に進むしかないとも考えている。ゲーム自体の質を上げ、「アニメ」「漫画」「小説」「音楽」とマルチプラットフォームで IP を構築する。ゲームを作るというより「IP」を作る、そうすれば二次元キャラでうまく金を稼げる。最後には「メタバース」への強い関心も語っていて、可能なら会社として早めにメタバースに布石を打てないか模索したいとも言っていた。
この計画を読んで、正直かなり驚いた。日本の会社、とくにギャルゲー出身の会社というと、頑固で人の話を聞かず、万年同じエンジンを死ぬまで使い続け、せいぜいぼったくりグッズを売って、立ち行かなくなったら倒産、みたいなイメージだったからだ。
でも Visual Arts は「二次元キャラ」市場の核が「IP」と「キャラ」にあるとちゃんと分かっている。シナリオでも音楽でもゲームでも小説でも、各種メディアは IP を形作るためのもので、その IP を世界に売る。確かにクリエイティブ企業が持つべきマーケティング戦略だ。
もちろん、この計画が単なるハッタリかどうかは分からない。ただ、僕は確かにこういうものに気づいた:

『終のステラ』。『planetarian』『Harmonia』に続くロボット三部作の完結編で、田中ロミオがメイン脚本、2022 年春発売予定、目標は劇場版映画化……
そして皆さんもご存知の通り、もう秋なのにゲームはようやく出てきた。で、「映像化」については……もうその話は出ていないようだ。
話を戻して、ゲームそのものについて書こう。
『終のステラ』、英語名はそのまま Stella of the End。素直に「星光の果て」と理解すればいい。「未来の廃土世界」+「人間とロボット」の物語だ。主人公のダダリア……じゃなくて、主人公のグレイは「傭兵」のような役割で、偶然、探索ロボットを特定の場所まで護送する任務を受ける。ところがロボットを探してみると、出てきたのは「可愛い人型の小さな女の子」、名前は「フィリア」。ロボットなのに極めて高い人工知能を備えている。

こうして主人公はこの天真爛漫なロボットの少女と旅に出る。道中では襲撃や困難がいろいろあるが、要は主人公が「適者生存、弱肉強食」と言い、ヒロインは聖母心を炸裂させ続ける、というだけだ。
最後に目的地へ護送すると、依頼人である年配の博士が現れる。博士は地球の外にいて、主人公に裏の真実を告げる。人類はロボットを作り、ロボットは永遠に人間に服従すると定めた。しかし人類の進化と発展に伴い、ロボットは今の「人間」を「当初の人間」と見なさなくなり、「今の人間」の管理権を否決し、殲滅を始めた。そして「フィリア」という存在の意味は、今のロボットと対話する窓口であり代理人になること。それが人間がロボットの制御権を取り戻す助けになる。ただしそのためには「フィリア」が犠牲になるかもしれない。

最後、主人公は「世界を救う」か「ヒロインを救う」かの選択で後者を選び、博士を殺し、自分も傷を負い、「フィリア」を連れて千々に砕けた地球へ戻る。
その後、主人公は死に、「フィリア」はロボットでありながら主人公の姓と遺志を継ぎ、彼の娘として地球上の流浪を始める。そして明るい未来は必ず来ると信じている。
正直、このゲームにはいくつか疑問がある。博士が最後に語った自分の目的、「フィリア」とは一体どういう存在なのか、なぜ彼女がいれば「世界を救える」のか。ただ字面から見ると、「フィリア」はむしろ「人間とロボットの対話」の代理人で、人間がこの代理人を制御すればロボットを制御できる、みたいな感じだが……

まあ、この設定を理解できなくても全体のゲーム体験には影響しない。ゲームは本質的に「planetarian」と同じ物語だ。未来世界、人類の衰退、廃土での生存、人間性への呼びかけ。ゲームは長い篇幅を使ってある対比を描く。主人公は生き延びるために人間性を失い、野獣へと退化している。一方、ヒロインはロボットなのに、ずっと楽観的で「愛」を抱いている。このテーマは古臭いが、確かにずっと有効だ。

制作面では従来のギャルゲー風ではなく、どちらかというと Visual Novel、つまり「ビジュアルノベル」に近い。ゲームの会話はすべて全画面で三人称の口調で描写され、一般的なテキスト読書の流れに合っている。ヒロインの立ち絵が真ん中にあって、下に会話テキストボックスがある、みたいな画面は見られない。絶えず切り替わる様々な静的・動的 CG があり、淡いフェードイン・フェードアウトのテキストが添えられる。主人公にもヒロインにも CV がついていて、どれもなかなか良い。三人称視点に挟まれる会話が、作り出したい「読書感」をより際立たせている。ゲームの最後まで主人公とヒロインの間は一貫して「父娘関係」で、オタクが喜ぶような「恋愛要素」は存在しない。さらに企画当初に強調されていた「映像化」の目標を考え合わせると、この脚本が「大いなる愛を呼びかける」ポリコレ映画を作るために用意されたものだというのは容易に理解できる。
ゲームの流れは長くなく、大半は「旅」だ。世界の風格は少し「デス・ストランディング」の味があって、とくに主人公の出で立ちは、もしかすると少し参考にしているのかもしれない。僕が満足したのは、ゲームにわざとらしい涙を誘う部分がないことだ。『planetarian』のように意図的に「音楽が鳴ったら涙がこぼれる」ではなく、意外なようで意外でない結末で、心に忘れがたく残る。

でも、やはり感慨深い。正直に言えば、『終のステラ』というゲームは 2022 年のゲーム市場に置くと、別に特別なところはない。こんな話はもう数え切れないほど見てきたし、そのたびに多かれ少なかれ心を動かされてきた。
何と言うか、非人間の集団が人間性の輝きを見せることで人間の喪失を対比させる、というのはもう古い伝統だ。僕らにも分かるし、僕らも絶えず反省する。でもなぜ僕らはいつも同じ過ちを繰り返すのか? なぜ人間の人間性は、様々な作品が様々な物語を語ることでしか呼び覚まされ、存在できないのか?
もしかすると今の人類、つまり今の僕らは、本当にどんどん屍のようなものになっているのかもしれない。
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