減量・火鍋・感情・理性

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毎日のように口にしている通り、俺はダイエットを続けていて、それがもうすぐ一年になる。いや、今日でちょうど一年だ。ところが、この記念すべき日に俺は走るのをやめた。理由はもちろん、脚が痛いから。走れない日が続くと、ちょっとした強迫観念に襲われる。でも、考えてみれば走って痩せる生活ももう一年。目的は失敗したけど、少なくとも脂肪は落ちたわけだし、そろそろ一区切りつけてもいいんじゃないか? ダイエット成功はもう確定事項で、必要なのはリバウンドしないようにすることだけ。週末とあって、ちょっと食欲が湧いてきた。火鍋が食いたい。でも戻るのが怖い。 ネットに寄生している身としては、また検索エンジンを叩き始める…… あれこれ探して、いろんな体験談を見てみたけど、出てくるのは「良い生活リズムと食習慣を維持しましょう、痩せたからってドカ食いしちゃダメよ……blah, blah, blah」みたいなのばかり。最後にようやくYahoo!知恵袋で一つの回答を見つけた。「たまにドカ食いしても大丈夫ですよ。ダイエットやめたら少し緩めてもいいじゃないですか、そんなに張り詰めなくても」と。俺は大きく息を吐いた。これで火鍋が食える。 一部始終を見ていた母が言う。「で、あなた半日ずっと探してたのは、その一言が欲しかっただけなんでしょ?」 「他の意見は科学的じゃないんだよ。この人の言い方のほうが比較的理性的だろ」と俺は弁解する。 「自分が言ってほしいことを言ったから理性的ってこと?」 ……ぐうの音も出ない。

火鍋を食べたあと、自分のこの行動はけっこう醜いなと思った。欲しい結果を得るために、あちこちで他人の承認を求め、ネットの海の中で自分の耳に一番心地よい言葉だけを選んで信じ、耳に痛い言葉はすべて否定する。人間は感情の動物だ。感情は良いもののときもある。人と人との温かさを感じさせてくれる。でも、感情がマイナスの力をもたらすこともある。感情に縛られすぎると、理性の判断が鈍る。 Yahoo!知恵袋にある人の署名が、この問題をよく表している気がする。 「yesかnoかを誰かに聞きたいとき、その瞬間あなたの心にはすでに答えがある。ただ、誰かにその言葉を言ってほしいだけなんだ」 自分の心の中のいろんな疑問を思い返すと、多くのことがクリアに見えてくる。何かに迷うとき、ただ他人の承認が欲しいだけなんだ。何が好きで何が嫌いか、その理由は理性的な分析から出てくるものじゃない。ほとんどの場合、俺たちはその好き嫌いの判定を支えるために、理性的な分析を後付けしているだけだ。もしかしたら、毎日あれこれ理由を並べてAppleを叩いているアンチは、元カノに「iPhoneも買えないの?」と見下されたからAppleを憎んでいるだけで、他の理由なんてどうでもいいのかもしれない……そう考えると、毎日「自分は理性的に分析して結論を出している」とアピールしている連中は、けっこうなツンデレだ。 もちろん俺も同じだ。個人的な好みで何かを好きになったり嫌いになったりするとき、その感情を土台にして、さまざまな理性的な内容を引っ張ってきて自分の意見を補強し、一時の衝動じゃなく理性的なんだと証明しようとする。たとえ心のどこかで「こいつ、そんなに悪くないぞ」という声がしていても。 ちげーよ、俺は黒歴史があるから特定のものを叩いてるんだ、1,2,3,4,5……みたいなバカげた理由じゃねえんだよ 一度陣営を決めたら最後まで突き通す。自分をXXアンチと名乗った以上は、叩き続ける。これは感情の帰還不能点だ……

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