『ノラと皇女と野良猫ハート』レビュー
正直、このゲームは最初やるつもりはなかった。体験版はずいぶん前に出ていたのにずっと手を出さなかったのには、ちゃんと理由がある。
一つ目は、OP がどうにも刺さらなかったこと。OP にやられてゲームを買ってしまうことが何度もある俺にとって、これはゲーム選びにおける弱点だと思う。
二つ目は、設定があまりにもラノベすぎること。冥界の皇女が地上に来て世界を滅ぼすとか、そんな話ラノベで見飽きてるだろ?異世界からヒロインが降ってきて主人公と出会うなんて、いくらでもあるんだよ!
三つ目は画風。正直あまりにも…妖艶すぎる。キャラデザがどうしても好きになれなくて、どの娘も欲求不満の女性レイパーみたいに見える。俺はやっぱり純粋な萌え豚でいたほうがいいのかもしれない。もっと可愛い絵柄のほうが口に合う。
そんな、どう考えてもくだらない理由でずっとこのゲームを無視していたのに、向こうはやたらと動きが多かった。アニメ化を発表したり、広告を打ったり、セールをやったり。裏の会社がよっぽど太いパイプを持ってるんじゃないかと疑ったくらいだ。最終的には Twitter での怒涛の攻めに耐えきれず、体験版だけでも覗いてみるか…と思った。
そしたらもう止まらなくなった…
どう言えばいいのか、このゲームは想像していたよりずっとずっとずっとずっと面白かった。むしろ佳作だ。

最初の予想どおり、ゲームはずっとラノベ方式で展開していく。いや、正しくは漫画方式だ。しかもギャグ路線。この「ギャグ路線」があまりにも正解だった。もし真面目にシリアス路線で行っていたら、このゲームは確実に死んでいた。
序盤、主人公は養母に引き取られた孤児だと語る。養母は生前、主人公を含む多くの人を引き取り助けてきた。そして主人公と同居している、身元不明のシャチという女の子。場面は冥界に移り、冥界の母は、近年陽間の人間が死を恐れなくなり、死とは何かを忘れ始めていると考える。このままでは冥界が危うい。そこで自分の娘である冥界の皇女パトリシアを陽間へ送り、死の魔法をかけて人間に死の意味を思い出させようとする(もちろんその魔法は最後まで詠唱されないし、詠唱されたら陽間がどうなるのかも不明だが)。

そしてすぐに冥界の皇女が陽間に降り立ち、主人公・反田ノラと出会う。最初の皇女はもう、バカみたいだった。何せ冥界から来たので何もわからない。何を見ても魔法の力だと思い、何を見ても陽間人類の陰謀だと疑う。果てはエロ本を拾って「命の魔導書」だと言い出し、主人公に読めと迫る始末。そして何よりこの皇女はやたらとイキっていて、人間はみんな死ぬべきだ、自分は彼らを見下す存在だと思い込んでいる。陽間は危機だらけで、笑いものにしかならない。

そんな中、主人公は学校で風紀委員の黒木未知と出会う。彼女は人に頼まれて、男性への告白の仕方を主人公に教わろうとしていると言う。主人公は彼女がふざけていると思って相手にしなかったが、彼女は一本気な脳みその持ち主で、本当に長文のラブレターを書き、主人公を練習台にしようとする。しかしその手紙があまりにも恥ずかしすぎて、黒木未知はどうしても読み上げられない。そこへ皇女が通りかかり、その手紙を見て魔法の呪文だと思い込む。何だと聞くと、黒木は「告白」だと説明する。皇女は「なるほど、コクハクという魔法か。私も覚えよう」と閃き、黒木の練習姿を真似て、意味もわからず大きな声で朗読する。しかし周りの人間は真剣に見入ってしまい、逆に面白がる。読み終えた皇女はなぜか少し胸がときめき、照れくさくなり、その流れでぼんやりしている主人公にキスをしてしまう。そしてすべてが変わった。

なぜ変わったのか。相手は冥界の皇女、凡人とキスをすればそれは契約を交わしたも同然。主人公はわけもわからず皇女の眷属になってしまう。眷属とは何か、まあ最低ランクの子分みたいなものだ。だが問題はそこではない。主人公は眷属になった途端、体が一匹の黒猫になってしまったのだ。しかも誰にも自分の言葉が通じない。家にも帰れず、街をさまようしかない。挙げ句、黒木未知に拾われてしばらく世話になる。彼女が誰なのかはわかっているのに言葉が通じない。猫になった主人公はひたすら苦しい。しかも猫の世界でも猫語がわからず、両方で馴染めない。結局黒木と一緒にぶらぶらしながら、心の中で周囲の出来事にツッコミを入れるしかなかった。


やがて皇女は、主人公がいなくなり、代わりにどこの馬の骨かわからない野良猫が現れたこと、しかもその猫が自分とだけ会話できることを知り、自分がうっかり眷属を作ってしまい、しかも猫に変えてしまったと理解する。主人公の猫状態を解除してやらねばならない。解除方法は簡単で、キスをすればいい。つまり、キスで猫になり、またキスで人間に戻る。何度でも切り替え可能。ただしそれでも主人公は皇女の眷属のままで、その身分は変わらない。

その後、冥界の母が皇女に問う。陽間での死の魔法の進捗はどうなのか、と。
皇女はまだ時間が必要だと答える。「人間の魔法や状態をもっと知らなければ、効果的に魔法をかけられません」。そして人間界で「生」と「死」に関する多くの魔法を学んだとも話す。

冥界の皇女なので日本語がよくわからない皇女は、主人公の家に居候しながら人間の文字(要するに日本語)を学び、人類の文化や生命に対する様々な考えを研究し始める。皇女はとても努力家で、最初は小学生未満のレベルだったのが、すぐに上達し、冥界にはないものもたくさん覚えていく。何より大きかったのは、主人公が養母の命日に開いた海辺の食事会だ。幼い頃の遊び仲間、つまり養母に世話になった者たちが海辺に集まり、海鮮カレーを食べて盛り上がる。皇女は不思議に思う。
「養母が亡くなった日なのに、どうしてみんなそんなに楽しそうなの?」 「生前、母は私たちが楽しくあることを望んでいた。今の私たちが元気で、楽しく過ごしているなら、母も喜ぶと思う」 「でも、もう死んでいて、いないんでしょ?」 「でも私たちは母のことをずっと覚えている。私たちにとって、母はまだ生きているんだ」

そこで皇女は人間の死に対する考えを真剣に考え始める。冥界の者として、死は人間にとって恐ろしいものだと思い込んでいたのに、こんなに楽観的で泰然と死を受け止める人間がいる。それでは冥界が寂れるのも無理はない。
皇女は主人公や仲間たちと日々接するうちに、人間界への見方をどんどん改めていく。そして主人公と養母のエピソードを通して、本当の生と死とは何かを悟っていく。
「生きていると死んでいるという状態は、単に命だけで測るべきではないのかもしれない。人が死んでも、誰かがずっと覚え、思い続けていれば、その人はまだ生きている。逆に、生きていても誰にも気にかけられず、存在すら知られていなければ、死んでいるのと何が違う?むしろそっちのほうが死んでいるんじゃないか」
皇女と主人公の接触は日増しに増え、ある日ついに気づく。主人公と向き合うと、体が脈打ち始めたのだ。胸から。
要するに心臓の鼓動だが、冥界の者はそれを知らない。
こうして皇女はどんどん主人公を意識するようになるが、主人公自身もおかしな問題を抱えていることに気づく…いや、周りが気づく。
問題は単純。主人公は猫から人間に戻ったものの、どんどん猫に近づいていった。座り方は猫のように足を開き両手をつき、普段テレビを見るときも猫の映像ばかり見る。果てはエロ本も読まなくなり、猫の写真集を集め始める。最後には学校や街で、明らかにおかしい目つきでペルシャ猫やその他の猫に餌をやるようになる。

周囲は主人公を異常だと思い、皇女も異常だと思い、果ては嫉妬までし始める。最終的に主人公はもういっそ人間をやめて猫になろうとまで言い出す。それであのペルシャ猫ちゃんとロマンスを繰り広げられるなら、たとえそのペルシャ猫ちゃんが猫社会の 3P 肉便器であっても、「俺も混ぜて 4P にしてくれ」と固執する始末。ひと騒動の末、皇女は冥界眷属の魔法の由来を突き止め、主人公の眷属身分を解除する。主人公はもう猫になりたいと思わなくなり、皇女も一連の騒動の中で正式に主人公と恋人になった。
付き合い始めると周囲は祝福してくれたが、新たな問題が待っていた。
1、皇女は恋をして心臓が鼓動するようになり、生きている人間になったため、もう冥界に戻れない。皇女本人は気にしておらず、戻れなければ戻らなくていい、死んでから戻ればいいと言う。 2、冥界は皇女を陽間へ死の魔法をかけさせるために送ったのに、皇女は陽間に懐柔されてしまった。冥界の母は激怒する。
そこで冥界の母は皇女の姉と妹を送り込み、何としても皇女を冥界へ連れ戻そうとする。
姉は主人公の暗殺を選ぶ。主人公が死ねば皇女の恋も終わり、鼓動も止まり、自然に冥界へ戻れるという算段だ。しかし主人公の口先だけの論破に敗れる。

一方、妹は主人公を去勢しようとする。最初は主人公を猫にしてペット病院へ連れて行き避妊手術をさせようとするが、主人公に見つかって逃げられる。最後には直接魔法を詠唱し、主人公を体から心まで浄化してしまう。その後、主人公は六根清浄、雑念ゼロの聖人となり、毎日敬語で話し、エッチなことにも一切興味を持たず、誰にでも尊敬の念を抱くようになる。皇女が様々に説得し色仕掛けをしても無駄。もう諦めかけたその時、妹の魔法能力が不安定だったせいで、最後の色仕掛けが効いてしまい、主人公は聖人から凡人へと引き戻される。妹の計画も失敗した。

冥界の母は皇女を陽間へ送ったのに帰ってこない。姉と妹を連れ戻しに送っても帰ってこない。業を煮やした冥界の母は、自ら陽間へ乗り込む。陽間へ来てみると、三人の娘が主人公や仲間たちと毎日笑い合い、騒ぎ、楽しそうにしている。皇女は主人公を彼氏だと冥界の母に紹介し、冥界の母も陽間の食事を口にする。そこでなぜ娘たちが帰りたがらないのか、なんとなくわかってしまう。冥界は退屈で、景色も悪く、飯も普通だ。しかし冥界の母はツンデレで認めようとしない。最後まで意地を張った冥界の母は、皇女の心臓を握りつぶし、死なせて冥界へ連れて帰ろうとする。それでも主人公は諦めず、かつて皇女が自分にキスをして眷属にしたように、皇女にキスをする。奇跡が起き、皇女の鼓動が戻る。冥界の母は驚き、呆れ、さらにツンデレる。ひとまず主人公は見逃すが、娘たちは次の満月までに冥界へ戻らねばならぬ、さもなくば後の責任は負わないと告げる。
同時に冥界の母は主人公と一度話し、陽間と冥界の関係を明かす。
陽間と冥界は常に動的平衡にある。死んだ者は陽間から冥界へ行き、冥界の者は死んだらそれで終わり。勝手に陽間へ行くことはできない。ましてや冥界の者が陽間で鼓動を得て居座るなど、法則に反し、平衡を破り、両界の混乱を招く。
主人公はそこで、皇女に鼓動が生じてから陽間で奇妙な自然災害が多発していたことに気づく。台風、津波、地震など。以前にもあったが、最近は頻度が増し、雨も長く降り続ける。主人公は自分が過ちを犯したと悟る。放っておけば両世界が崩壊する。

「1+1=2、1-1=0。俺は頭も数学も良くないけど、それくらいは教わったからわかる。冥界の者が陽間で生まれ変わったら、平衡を保つために陽間の誰かが命を差し出さねばならない。でなければすべて崩れる。俺は冥界へ旅立たねばならないのかもしれない」——その時、主人公はすでに猫になっていた。昨日、皇女の心臓が止まった後、主人公のキスで自分の命を皇女に与え、皇女は人間になり、主人公は名目上死んで冥界の猫となり、冥界へ報告に行くしかなかったのだ。
「冥界で頑張る。十分に強くなって、また冥界の者として陽間へ来る」と主人公は皇女の引き留めを振り切り、冥界へ旅立つ。
主人公が去って三日後、彼は冥界から戻ってきた。行ってみてわかったのは、冥界の千年が陽間のたった三日に過ぎないということ。主人公は陽間へ戻り、しみじみと「久しぶり」の感覚を味わうが、周りは彼を頭がおかしくなったと思っている。たった三日しか経っていないのだから。
主人公は誇らしげに、冥界で千年修行して成果を収め、冥界と陽間を自由に行き来できるようになった。何より皇女と一緒にいられるようになったと語る。
最後に皇女が問う。そんなに長く修行して、どんな魔法を覚えたの?
主人公は、すごい魔法を覚えたと答える。猫と人間を自由に切り替える魔法だ。しかも人間から猫になって人間に戻っても、服はない裸のままだ。

皇女もそんなことは気にせず、猫になった主人公を抱きしめ、ハッピーエンドを迎えた。
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ああ、真面目にストーリーを語ってしまったが、このゲームの売りは筋書きではなく、膨大な日常ギャグ要素だ。ラブコメギャグ漫画というものを多くの人が見たことがあるだろう。「ラブコメ」という概念を俺が理解したのは『神のみぞ知るセカイ』を読んでからだ。若木老賊は自分の漫画がラブコメだと繰り返し強調していたし、中二の小学生が真剣に「ラブコメ」とは何かを解析していた。実際、このラブコメはただのタグで、そのタグがついた漫画はそこら中にある。おそらく若木老賊は『神のみぞ知るセカイ』がミステリーでもバトル漫画でもないと強調したかっただけだろう。

ラブコメとは何か。日常の中に軽いギャグ要素が満ちていることだ。『ノラと皇女と野良猫ハート』のギャグ要素は優秀なレベルで、最初から最後まで日常が退屈だと感じたことは一度もない。ゆきこいめるとのように、あちこち下ネタで日常を繋ぐようなこともない。このゲームの日常ギャグはどれも正統派で、青春らしく、比較的健全だ。多少の際どい要素はあるが、それはこちらの勝手な期待にすぎない。強いて言えば『バカとテストと召喚獣』に近い。ゲームは軽く、頭を使わずに済む。メインの筋は冥界から来た皇女と凡人の主人公が恋に落ちる、の一言に集約できる。その間の様々な曲折が、その都度ちょっとしたクライマックス(軽快で楽しいギャグ方向)を生む。物語が凡庸になることは決してないし、結末で泣かせる場面でも「主人公は陽間を三日離れただけ」という笑いを挟んでくる。周囲の脇役のツッコミも的確で、物語を動かすキャラが少なくとも三人はいる。他の、一、二人しかいないゲームとは格が違う。
OP はあまり良くないし、ED も印象に残らないが、BGM は非常に工夫されている。安っぽい伴奏ではなく、キャラごとのテーマも(目立たないが)存在する。印象的なのはギャグシーンの音楽で、ギターの歪んだ弾き方がギャグの雰囲気にこれ以上なく合っている。BGM としては十分すぎるほどだ。

もちろん設計上の欠点がないわけではない。漫画方式の展開を貫いているため、本質的に一本道のゲームになっている。タイトルが『ノラと皇女と野良猫ハート』、つまり主人公と皇女と野良猫の心がメインだと直接示している。他の分岐、黒木未知や桐谷華のバイト娘のルートは、「主人公が黒猫になってツッコミまくる」設定を離れた途端、平凡な恋愛ゲームになり、目立った見どころもなく、見る気が起きない。しかもメインの内容が豊富すぎる。四コマ漫画「ネコのお考え」や、クリア後の通行人勇者シリーズまで、どれも面白いギャグスタイルで、四コマの質が高いものもある。

画風については…まだ慣れないが、見ているうちに…まあ許せる範囲にはなった。
それに H シーンのために筋の整合性を多少犠牲にしている。例えば皇女を連れ戻しに来た姉と妹が、それぞれ皇女に引き合わされて主人公に筆おろしされる…純愛はどこ行った?だが、まあ筆おろし後は特に何も言わないので、サービスシーンとして受け止めておく。
総合的に見て、『ノラと皇女と野良猫ハート』は今年発売された中で、俺が見た最初の、そして今のところ唯一の、質の非常に高いゲームだ。筋書きではなく、純粋にギャグスタイルで物語を語り、しかもそれが上手い。見ていて楽しい。「ゲーム体験」とイキって言うなら優秀だ。非常に遊ぶ価値がある。メインルートを進めよう。俺が言ったように、これは一本道のゲームだ。何せタイトルがすべてを語っている。主人公の名前はノラ、そして野良猫の「野良」の発音もノラだ。
もちろん、このゲームは本質的にギャグゲームなので、一部のプレイヤーを不満にさせるのは当然だ。

批評空間にはこのゲームに対していくつか奇妙な評価がある。ある人は長々と書き連ね、このゲームは悪くないし面白いが、明らかにアニメ化を狙って作られたものだ、「アニメ化で大衆に合わせるために、固有の個性を失っている」と評している。

俺にはわからない。「固有の個性」とは何だ。このゲームはどこから見ても問題ないし、その評価自体も最初はゲームを認めている。なのに、なぜ良いと感じているのに無理やり悪評をつけるのか?
さらに批評者は「豚骨ラーメンのようなものだ。ああ、豚骨ラーメンが嫌いだと言っているわけではない。だが…」とも言う。
その瞬間、わかった。カップ麺は好きだが、カップ麺を食べるのは格好悪いと感じ、イキるために「普段はイタリアの海鮮パスタにワインだが、たまにカップ麺も食べる」と言い張る連中と同じだ。
認めざるを得ないが、どこにでもこういうイキりたがる奴はいる。特立独行と、自分は特立独行だと思い込むことは別物だ。いつからこんな風潮が生まれたのか、「人性を深く掘り下げる」「超展開がある」「死人が輪廻転生する」といったアニメやゲームや小説が高く評価されるが、叫ばれる割に売れない。一方、「ギャグ」「熱血」「真面目に平凡な話を語る」ものは売れるが評価されず、しかも「民工漫」「トイレットペーパーを買って挿絵がついてくる」「萌え抜きの廃萌え」などのレッテルを貼られる。そして高みから優越感たっぷりに指点江山し、業界の首脳気取りで、自分は精品を追い求めているのに得られないと嘆く。
先日 2ch でゆずソフトに関する議論があった。エロゲープレイヤーのレベルごとにゆずソフトへの態度が違うという。
エロゲー初級者:ゆずソフト最高だぜ。 エロゲー中級者:ゆずソフトはクズだ エロゲー上級者:やっばいゆずソフト最高だ。
ここにいる上級者も、ゆずソフト最高と褒めるときに優越感を漂わせている。この優越感爆発で、人に教えたがり、口先だけの PVP で快感を得るバカは日本にも中国にもそこら中にいる。5ch やX、果ては掲示板にも。いかにも滔々と語っているが、実は自己満足のためのいい加減な吠え声にすぎない。
このゲームを分解して解析しろと言われたら、そんなの面倒でやる気しない。俺はただこのゲームが軽くて、愉快で、面白くて、楽しいと感じた。それでは足りないのか?無理に人性の高みまで持ち上げて、お前疲れないのか?毎朝ワインで油条を食べないとか、茶碗の米粒が何粒あるか半日解析するとか、そんなことしてるのか?

しかも根本的にこのゲームの企画意図を誤解している気がする。「アニメ化」ばかり持ち出すが、公式サイトの報道によれば、アニメ化される可能性が高いのはショートアニメで、要するに泡麺アニメだと思う。制作側がそんな泡麺アニメのためにゲームのスタイルを変えるだろうか?しかもこのゲームのスタイルはどう見ても漫画風で、アニメになっても漫画原作アニメ風になるだけ。何の問題もない。ギャルゲーでこんなことをしてはいけないなんて誰も言っていない。何より、ゲームの筋書きはよく書けていて、非常に流暢。締めるところは締め、緩めるところは緩め、このテンポがとても良い。日常で眠くなるほど引っ張って、最後に下痢のように超展開を出すよりずっとマシだ。
しかもゲームは意味のあることも教えてくれる。生と死の観点も含めて。
「ある人は生きているが、すでに死んでいる。ある人は死んでいるが、まだ生きている。」
こんな話は何年も言われてきた。なぜ未だに高みから、物語に格調がないと批判できるのか、不思議でならない。
ふと思い出すのは、一部の少年たちがよく引用しながら、自分がその中にいるかを無視している言葉だ。
「大衆が喜んで見ているものを、お前が気に入らないからといって、お前は何様だ?」
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