『Clover Day's』レビュー
私たちに一番素朴な感覚を届けてくれるのは、いつだって王道作品だ
「王道」という言葉を最初に見たのは中国の映画だった。意味は「王となる道」。その後、日本のアニメで見たのが『バカとテストと召喚獣』2期の第9話で、E組の委員長が「王道 Winning Road」と叫ぶのを聞いて、たぶん11区ではこの言葉はちょっと違う意味で使われているんだろうなと思った。
だから『Aldnoah.Zero』の公開前に、監督の青木英がこれは「王道」作品になると言ったとき、少し考えて、作品を修飾する言葉としての「王道」の意味が分かった気がした。
「王道」とはテンプレート化ということだ。聞こえは良くないけれど、嫌われにくいのは確かだ。なにせ「王道」が「王道」たるゆえんは、そのテンプレートが大衆に好まれる内容であることが多いからだ。みんなが見たいものを繰り返し出す。絶賛はされなくとも、酷評は絶対にされない。
だから『Aldnoah.Zero』が王道かどうかは分からないけど、『Clover Day’s』は間違いなくギャルゲーにおける王道作品と言っていい。

ギャルゲーの王道作品には何が求められるのか。そこは本源に戻るしかない。ギャルゲーはもともとエロゲーとして提唱され、その後エロという語を避けるためにギャルという概念が持ち出されたらしいが、エロだろうがギャルだろうが、最終的にはGirl and Love、つまりGalの全文から逃れられない。要するに妹を落とすのが核心で、Kissしてもいい、Hugしてもいい、Fuckしてもいい、でも核心は妹を落とすことにある。ヒロインは美しいほど美しく、萌えれば萌えるほど萌えて、声は柔らかいほど柔らかく、属性は良いほど良い。広大なオタクが見れば下が膨らむほど膨らみ、心が痒くなるほど痒くなる……。紆余曲折を経て、いろんな属性や要素がGalに追加されてきたけれど、この妹を落とすという核心は失われていない。それを最も古典的な形で見せられること、それがいわゆる「王道」なのだ。

古典的な形こそ、オタクたちの美しい夢だ。車と家があって、親はそばにおらず、同居には義妹、向かいに幼馴染、クラスにはツンデレ、さらには転校生。誰もが主人公に想いを寄せ、他の誰かと嫉妬し合うことも厭わない。そして主人公は永遠にハーレムを構えてバラ色の日々を享受しながら、自分の不幸を嘆く。この既視感はギャルゲーだけのものではなく、後のライトノベルやオリジナルTVアニメでもよく見かけたし、いろんな人にツッコまれてもきた。それでも誰かが飽きもせず使い続ける。古臭いけれど確かに好まれる。だから王道なのだ。
『Clover Day’s』は企画の最初から古典的要素を帯びていた。Alcotの10周年記念作品であり、同時に10年前の『Clover Heart』へのオマージュでもある。新作の背景もOPも旧作と完全に一致し、二つの作品をまたぐ人物(西園寺先生、飛鳥凛)も登場する。シナリオも当然旧作のスタイルを継承し、その上でさらに発展させている。
古典設定その一:初期好感度100% 『Clover Heart』は双子の姉妹との恋を描く物語だ。だから……『Clover Day’s』にも当然双子がいる。しかもやるならとことん、三組の双子姉妹を詰め込んできた(言い間違いじゃない、三組だ)。恋を追求する感情描写はほぼゼロ。よく見てほしい、「恋を追求する」の部分。なぜならゲームの最初から、いや主人公が10年前の子供の頃から、彼はもう恋愛フラグを山の斜面いっぱいに立ててしまっているからだ。10年後の主人公の周りの女性は全員好感度100%。主人公がやることは、その中から一人(あるいは二人)を伴侣として選ぶだけ。イギリスのホモがSAOの感情描写をツッコんだときと同じだ。「この作品の女性キャラは全員、主人公がいないと生きていけない、主見のない軟弱者ばかりだ」と。
古典設定その二:女方から告白 ギャルゲーの開発趣旨は、現実で恋愛に恵まれない連中を満足させるための場所だ。だからゲームの中でプレイヤーを困らせることはない。どのヒロインも主人公が好きで、告白は当然男方からではない。『Clover Day’s』には五本のルートがあり、全部女方からの告白だ。しかも何本かは告白を奪い合う。男方の描写と造形はと言えば、非常に弱々しく存在感ゼロ。普段は妹と幼馴染の太ももをこっそり眺める以外は、毎日うじうじしてだらしなく過ごし、そのうえ女方からの告白を座って待つ。うまく自分をゲームに没入できないと、私のように主人公を手で引き裂きたくなる錯覚に陥る。
古典設定その三:女方の弱さとそれを乗り越えること 初期のギャルゲーはあまりやったことがないけれど、パコパコ以外に何もなかったのかもしれない。後に単純なパコパコは退屈だと思う人がいて、いろんなシナリオが追加された。しかしシナリオの追加方向は常に女性側にある。つまり、主人公は萌えを売る以外に大した存在感を持たない。一方でプレイヤーの自己投影をよくするため、もう一方では手間を省くためだ(完全な主人公の性格を造形できる人はそういない。万一プレイヤーに嫌われたら元も子もない)。だから『Clover Day’s』では、どのヒロインにも一、二つ悩み事があるのが分かる。杏鈴の母への未練、杏璃の兄妹恋へのためらい、泉の出自と父への疑問、燕の自分の感情に直面する弱さ、そして白髪双子の主人公に対する…………二股すべきかどうかの迷い。設定はあるけれど、ルートは長くない……『Clover Day’s』は10周年作品として、Frontwingの『グリザイアの果実』のような異常な長さには達していないし、各ヒロインの過去の描写もそれほど丁寧ではない。重点はそこじゃないと思っているのか、それとも深く書くつもりがそもそもないのか、多くはさわりだけだ。

『Clover Day’s』は「王道」の香りが濃厚な作品だとずっと言ってきたし、古臭さをツッコんでいるようにも見えるけれど、実際に『Clover Day’s』が与えてくれる感覚は悪くない。さっきの王道の定義どおり、好まれる要素は、拍案叫絶とまではいかなくとも、嫌な気分にはさせない。実際、Alcotはこういうタイプの作品を作るのが非常に上手い。シナリオの欠陥と設定の古臭さを、強力な画風と優れた音楽、そして炸裂するOPで見事に埋めてみせた。遊び終わったあと、古臭いなと思いつつも……それ以外は悪くない、と思わせる。

『Clover Day’s』のキャラデザと画風については多言を要しないだろう。美しく、どのCGも崩れがなく、品質は高い。高すぎて誰からも愛されるほどだ。音楽はさらにOSTをダウンロードして繰り返し聴く価値がある。特にClover daysとリアレンジされたClover Heartがシナリオと合わさって聴くと感慨深い。ここで特に触れるべきはゲームOP2の入り方だ。各キャラごとに個別のOP2があり、過場の独白と合わせて、雰囲気を一気に頂点まで盛り上げる(後のシナリオで騙された気分になるけれど)。

ゲームを全部通して、なかなか感慨深い。Alcotのゲームはあまりやっていなくて、四本だけだ。どのゲームにも強い既視感があるけれど、嫌いになれない。シナリオはAlcotの弱点かもしれないが、最初から萌えと設定と画面とエロを売りに来ていると教えてくれている。シナリオで格好つける気もなく、直接楽しい方向に走り、ネタまで大いに振ってくる。正直すぎてツッコむほうが馬鹿らしくなる。まして『Clover Day’s』というゲームにおいては、シナリオがやや短い以外に目立った欠陥はない。美しいヒロインが目の前に立って付き合ってほしいと言ってきたら、短大卒だからという理由で断れるだろうか。
2014年はちょっとアレだったのか、やったギャルゲーも少なくない。でも『Clover Day’s』をクリアしたあと、何年も前に人生初のギャルゲーをやったときの感覚を思い出した。陳腐かもしれない、退屈かもしれない。でも私たちに一番素朴な感覚を届けてくれるのは、いつだって王道作品だ。いろんな猟奇や退屈な人生論に食傷気味になったら、リラックスした気持ちで古典の香りが濃厚なギャルゲーをやるのも悪くない。
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