『大図書館の羊飼い』:素性は悪いが、観感は悪くない
まず、ゲームの話じゃない。ゲームについては前に書いた。今回はアニメの話だ。
近年の情勢を見ると、日本の深夜アニメ作品の中でギャルゲー原作ものはラノベや漫画原作の波にほぼ飲み込まれかけている。ギャルゲー制作会社の大半が金を持っていないからか、ギャルゲーは純粋なアニメのストーリーではなく18禁で売り上げを伸ばすものだからか、それとも……ギャルゲー原作アニメをうまく作るのが難しすぎるからか。
アニメ全体で大成功したギャルゲー原作は数えるほどしかなく、大半は尻切れトンボで終わって、視聴者は適当に見て次のクールにはもう忘れている、なんて程度。制作側がギャルゲー原作をうまく作れないというより、資金が限られた状況でギャルゲー原作を作るのがあまりにも難しいのだ。ギャルゲーをやったことのある人間なら分かるだろうが、ラノベや漫画との最大の違いは、分岐によって個別ルートのパラレルワールド的なストーリーに入れることだ。そしてあるヒロインの個別ルートでは、他のヒロインはほとんど存在しないに等しい。ギャルゲーには複数のヒロインがいて、それぞれにファンがいる。どのルートを走らせるか、どうルートを配置するか、これがもう大問題だ。おまけに作品によってはルート同士が衝突することもある。まず各ヒロインの物語をかき混ぜて筋を通すだけでも至難の業なのに、その混ぜた味のストーリーに合理性と論理性まで求めようものなら、なおさら難易度は跳ね上がる。ストーリーはゲームやアニメの一部分に過ぎないが、しかし確かに核だ。どんなに美麗な制作でも、ボケた脚本に当たれば興奮なんてできない。これが現段階のギャルゲー原作アニメの難しさなのである。
そこで党争を避けるため、脚本家たちは全力を尽くして、ゲームの共通ルートをアニメで長く長く、さらに長く引き伸ばす。最終話まで主人公が誰とくっつくのか明かさない。ゲームではとっくにやってるのに、だ。中にはもういっそ開き直って、タイムスリップを始め、複数の世界線を書き、主人公に各ヒロインと一発ずつやらせるものまである。おっと、ギャルゲー原作は本当の一発はやれない。際どいところが限界だ。抜きゲーからエロを取ったら、男からアレを取ったようなもので、戦闘力ゼロ。だからクールごとにギャルゲー原作が次々と爆死ラインに突っ伏し、前でお茶を飲んで萌えている作品を眺めてため息をつく。
だから……『大図書館の羊飼い』がアニメ化すると知った時、多くの人が思ったのは、これどうやって死ぬんだろう、だった。

アニメ化の報せからさらに一年の沈黙。本来ギャルゲーのアニメ化は続編やファンディスクの販促のはずだが、『大図書館の羊飼い』のファンディスク『Dreaming Sheep』はとっくに出ている。そして今年10月、ようやくアニメがやってきた。
このアニメの出資者がどう考えているのか知らないが、俺には何を宣伝したいのかさっぱり分からん……
あるいは……制作陣はただ良いアニメを作りたかっただけなのか?
ギャルゲー原作をアニメ化して金を稼ぐ、宣伝映像じゃなくて?とんだ笑い話だ。某型月社がやるくらいで、他に誰がやる?ほどなくアニメはキャラデザと前期のPVを公開した。見終わった視聴者の表情はみんなヌオーに変わった。
AUGUSTのリンゴ顔を高品質で再現するのはほぼ不可能だと、みんなとっくに見抜いている。制作陣が何を出そうが、返ってくるのは罵声だけ。ましてや出てきたものの質は確かに良くなかった。
「このアニメが視聴者やゲームファンを満足させられるかは分かりません……でも、なるべく皆さんに満足してもらえるよう努力します」アニメ放送前のPVで、監督はうつむきながら自信なさげにそう言った。実際、制作陣は自分たちがこの作品をうまく作れるという自信がなかった。BDのジャケットにすらゲームの原画家を呼んで助けてもらい、アニメ映像をジャケットにする勇気がなかったのだ。
だからアニメを見る時、俺はほとんど期待していなかった。だが一話ずつ見終わって……意外と悪くない。
『大図書館の羊飼い』の原作は日常色の濃い、ややギャグ寄りの作品で、ゲームの時点で顔芸が結構ある。制作陣も自分の作画に金がない、あるいは八月顔を再現できないと分かっていたのか、開き直って大量の顔芸と誇張された動きを入れてきた。これはちょっとした賭けで、うまくハマればクスッと笑えるが、外すと崩壊のレッテルを貼られるだけだ。だが実際、この効果はなかなか良い。少なくとも俺は許容範囲で、むしろ少し新鮮にすら感じた。
ルートの選択は通常のギャルゲー原作アニメの套路に従い、共通線を可能な限り引き伸ばし、主人公に早々と誰かを決めさせない。原作のメインストーリーは水無祭と羊飼いの二大筋に分かれ、小太刀の大活躍は水無祭の後の羊飼いパートだ。明らかに12話のアニメで羊飼い編を丸ごと描く長さはない。だから制作陣は羊飼いの試験の話を水無祭の前に混ぜ込み、水無祭を全体の締めにした。別に悪くはない。
もう一つ触れておきたいのは、小太刀の性格がアニメとゲームでかなりズレていることだ。ゲームではちょっと小悪魔な軟らかい子で、アニメほど常軌を逸してはいない。同じく副会長も、あちらはただの百合女子なのに、アニメは彼女の心の狭さを際立たせようとしてやりすぎている。
「羊飼い」という身分について、ゲームは面白い解釈を与えている。誰に対しても優しく、特定の誰かと過度に親しくならない奴が羊飼いに最もふさわしい。これは各種ACG作品のハーレム主人公をちょっと皮肉った感じだ。もし主人公が結末で誰かを伴侶に選ばなければ、彼は羊飼いになるしかない。明らかにそんな結末はダメだ。制作陣はなかなか面白い選択をしていて、主人公をまず羊飼いにして、その後正体がバレて免職させる。かなり無理やりだが、原作で特定の女性を真の主人公にするのもどれもしっくりこない。鈴木加奈は人気が最も高く、この筋は省けない。小太刀はTRUE ENDのヒロインで羊飼い本編の要、これも外せない。白崎はゲームの公式カップルで図書部の部長、無視するわけにもいかない。千莉は御園と水無祭の成功を結びつける存在で、これまた不可欠。だから可哀想なのは我らがタマゴ姫、桜庭玉藻である。彼女とセットの伏線は親友の正体で、そのルートは可有可無の話として残酷にカットされた。実際ゲームで桜庭は重要な位置にいて、図書部の活動は彼女の采配なくしては成り立たない。アニメでの省略は、図書部がちょっとお遊びに見えてしまうのは避けられない。だがギャルゲー原作アニメには常に尺の制約がある。制作陣もこの問題は考えたはずで、最終的にこういう改変を選ぶしかなかったのだろう。
俺がこのアニメを面白く見ていると、いつもいくつか声が聞こえてくる。ストーリーについて、映像について、このアニメ制作のあれこれについて。大半は崩れているという話で、ルートについての話もある。
正直に言えば、『大図書館の羊飼い』のアニメは制作面でかなり節約している。背景の大半はとても簡素な色の塊で、顔のない人も多い。止めて見れば、キャラの顔が崩れているカットもあり、小太刀の黒タイツはあったりなかったり、千莉の黒タイツも光沢があったりなかったり。BGMは全部ゲームからの流用なのに、これといった存在感もない。制作は確かに精巧とは言えない。
ルートの選択については前述の通り、これも仕方のない策だ。ヒロインは脇役含め攻略可能なのが8人もいて、ファンディスクは数えていない。全員に配慮するのはほぼ不可能だし、最後の結末も開放的なので、少なくとも念を残してくれる。小太刀党の俺としては満足している。これ以上何を求めるというのか……
スマホのレビューの影響を受けているのか、いつからか俺たちはアニメを純粋に楽しんで感想を出すのではなく、作品を分解して部品を一つずつ検査し、それぞれが精巧かどうかを確かめるようになった。作画監督は有名人か、監督に黒歴史はないか、BGMは炸裂しているか、CVは凄いか。どれか一つでも満たさなければ、出てくるものは必ずクソだ、と。
物事はそんなに極端じゃない。ピータン入り豚肉粥を飲む時、スープの具材を一つずつ掬い出して味わってからでないと食感を評価できないのか?老壇酸菜のカップ麺も、酸っぱさを楽しんだ後、中の具材が上等なものじゃないなんて考えたことがあるか?
オカルト界隈のヘッドホン評価には面白い言葉がある。聴感、だ。
時々ヘッドホンが面白い評価を得る。素性は良くないが、聴感は悪くない、と。
つまりそのヘッドホンの諸指標は大したことがないが、混ぜて聴くとまあまあOK、ということだ。
だから『大図書館の羊飼い』というアニメについて、俺の評価はこうだ。素性は悪いが、観感は悪くない。
長々と喋ったが、言いたいことは分かるだろ?
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