『アメイジング・グレイス -What color is your attribute?-』レビュー
神は人を愛すが、あなたを愛すとは限らない
『Amazing Grace』という有名な曲がある。日本語だと「アメイジング・グレイス」、日本語訳は「素晴らしきかな、我が神の恵み」なんて言われたりもするが、まあ要するに賛美歌だ。キリスト教と深い縁のある宗教曲で、あまりにも有名になりすぎた結果、今では宗教の枠を超えて世界中で親しまれている。
歌詞の意味はタイトル通り、神が与えたもうた恩寵を讃えるもの。ただ、人がこの曲に惹かれるのは、その「神聖さ」に心を揺さぶられるからだろう。宗教音楽が持つ独特の魔力ってやつだ。
そして今年の年末、その『Amazing Grace』の名を冠したゲームが登場した。しかも18禁エロゲー。おまけに梱枝りこが絵師、冬茜トムがシナリオという超弩級の布陣である。
冬茜トムと梱枝りこの前回のタッグは『Magical Charming』で、あのゲームは俺が「最強のギャルゲー」と呼ぶ作品だ。日常パートも伏線の張り方も、システムそのものまで光り輝いていた。その後も冬茜トムはいくつか企画を出しているが、正直いまいちだった。去年の『もののあはれは彩の頃。』もシナリオに光るものはあったけれど、どこか一歩足りない。だから今年の冬茜トムはやる気満々である。昔の相棒・梱枝りこを呼び戻し、さらに『Magical Charming』のOPを歌った佐倉紗織まで引っ張り出して、新作『アメイジング・グレイス -What color is your attribute?-』を作り上げた。意味は「Amazing Grace、お前の属性は何色?」ってところか。だがこのスタッフ陣を見てくれ、どう見てもLump of Sugarの作品である。あの鮮やかな「きゃべつそふと」のロゴがなければ、99%の人がLump of Sugarだと信じるに違いない。お馴染みのシナリオ、お馴染みの絵師、お馴染みのOP歌手。完全に同じ套路じゃないか。
もちろん、このゲームをやったのはきゃべつそふとに期待があったからでも、シナリオに特別なこだわりがあったからでもない。「冬」のゲームだからだ。
そう、俺を知ってる人なら分かるだろう。俺は冬の雰囲気が好きなのだ。雪が舞い散るあの彩りが好きだから、必然的に冬が舞台のゲームも好きになる。

で、発売リストを見ていたら『アメイジング・グレイス』があって、舞台は冬、シナリオも外れではなさそう。ならばやってみるか、と。
最初はただの萌えゲーだと思っていた。何せ梱枝りこだ。複雑すぎるCGなんて描けるわけがない。冬茜トムは超展開を仕掛けるのが得意だが、絵師の制約がある。しかもこの会社は梱枝りことかなり深い付き合いをしているらしく、絵師を変えるわけにもいかない。
つまりこの会社は、たまに超展開を挟む萌え抜きの売り肉会社だ(第一作の星恋*ティンクルを思い出してほしい)。だから『Amazing Grace』の名を冠したこのゲームも、冬の小さな町で主人公と女の子たちがワイワイやって、最後にちょっとした陰謀を見つけるけど全部解決してハッピーエンド、というお約束のゲームだろうと。
だがやってみたら、全部間違っていた。予想は一つも当たらなかった。
ゲームが始まると、まず異常な雰囲気が漂う。
主人公は湖のほとりで目を覚ます。記憶がない。白髪のユネという少女に拾われ、そばには巨乳のサクヤもいる。ユネとサクヤによれば、みんなこの町で暮らしていて、町で唯一の学校に通っている。学校は芸術系で、全員が芸術科を履修している。そして主人公はシュウという名前以外、何も覚えていない。

だが主人公を驚かせたのは、町のその他のことだった。
町の住民は「スマホ」なるものを知らない。ネットもなければ、歴史上の出来事もろくに知らない。なのに欧米ルネサンス期の油絵、特にキリスト教に関する油絵には詳しい。町にはリリぃ先生という修道女がいて、生徒たちの芸術鑑賞を指導している。
驚きはそれだけじゃない。ユネが言うには、この町は「オーロラの壁」に囲まれていて、壁の外の世界がどうなっているかは町の誰も知らない。そしてユネは、100年以上前に壁の外の世界は滅びた、と言う。

主人公は混乱する。自分は壁の外から逃げてきて、このオーロラの壁の中に入ったのか?
まあ、来たからには仕方ない。まずは住むことにした。そして町の学校が、自分の記憶にある「壁の外の世界」とかなり違うことに気づく。
1, ネットなし、パソコンなし、スマホなし 2, 宗教色が強い。修道女がよく生徒を連れて画廊を回り、キリスト教の絵を見せる。 3, 町の人の物事の認識がとても「純粋」。たとえばクリスマスはただのクリスマスで、今の世の中のようにヤリクリスマスになっていない。 4, ネットもパソコンもスマホもないのに、なぜかある種のドアには指紋認証や声認証がある……違和感がすごい。 5, 主人公の頭の中に時々妙な声が響く。誰かが何かを暗示しているようだ。 6, 町には他のメディアはないのに、ラジオ番組だけはある。パーソナリティのリラは天文地理なんでもござれで、この町の秘密を何か知っているらしい。
だがそれ以外は特に不気味な様子もない。みんなそれなりに楽しく暮らしているし、主人公の学校生活も悪くない。最初のユネ、サクヤ、それにむっつりなコトハ、爆破美学が好きなキリエ、男子のギドウやヨウジなんかと知り合い、毎日バカ話をしてそれなりに楽しい。

ほどなくクリスマスが近づく。クリスマス前のAdvent(キリスト降誕日)、主人公たちは森に行ってクリスマスツリーを飾る。主人公とユネが飾り用のリンゴをツリーに掛けていると、二つのリンゴが落ちてきた。しかも光っている。見ると、こいつら本物のリンゴになっていて、一つは赤、一つは緑だった。

そして二人は成り行きと好奇心で、食ってしまった。ユネが赤、主人公が緑。
翌朝、主人公は昨日リンゴを食べたことをよく覚えていない。ユネも覚えていないようだ。だが誰も気にしない。クリスマスが近いからだ。みんな何事もなく過ごし、学校ではクリスマスに学園祭まであって、賑やかそうに見えた。

問題はクリスマス当日に起きた。
クリスマスはすぐにやってきた。すべては正常に見えた。当日はラッパを吹くなどの儀式もあった。だが夜になると、町の人の様子がおかしくなり始める。酔っ払ったように頭が回っていない者が出てくる。そしてラッパの音が響いた瞬間、町で爆発が起きた。学校、広場、クリスマスツリーの近く、あちこちで爆発が始まり、町は一瞬で火の海に。主人公の仲間たちも見当たらない。火の中で逸れ、生きているのか死んでいるのか分からない。最後、主人公が絶望した瞬間、目の前が真っ白になり、どこかの空間に来たことに気づく。

見ると、町の画廊だ。だがただの画廊ではない。特別な空間のような気がする。そしてユネもそこにいた。
二人でくだらない話をしていると、ユネは自分に特別な力があることに気づく。おそらくAdvent Dayにリンゴを食べたことと関係している。その力は主人公をクリスマス数日前、リンゴを食べた日に戻すことができる。ユネは主人公に歴史を変え、クリスマスに町が滅びた真相を見つけてほしいと願う。

こうして主人公は過去に飛ばされた。だがそれは無限ループの始まりだった。
無事に飛んだ主人公は、クリスマス数日前に戻ったものの、自分だけが飛ぶ前の記憶を持っていて、他の誰も知らないことに気づく。さらに困ったことに、飛んだ後も何をすればいいのか見当がつかない。最初のループは大した収穫もなく終わり、当然クリスマスになってまた爆発、町は再び火の海に。主人公はまたあの空間に戻り、ユネと会う。

一度飛べば二度目もある。ユネ曰く、すべてはあのリンゴの力。戻りたければ戻ればいい。回数に制限もないらしい。まるで二人でリンゴを食べた日にセーブポイントを設定して、ひたすらロードしているみたいだ。
こうして主人公は何度もループを重ね、様々な発見をする。
1, 町の隠し場所に仕掛けられた爆弾を見つけた。だが全部処理しても、クリスマスにはやはり爆発した。 2, 町でフクロウの印の紙片を見つけた。だがコトハに警告される。これは禁忌の品で、幻覚作用のあるドラッグらしい。 3, キリエと一緒に町で穴を掘り、地下から「オーロラの壁」を越えようとした。だが穴の下には下水道があり、その中に部屋があった。入ってみると、監視室のようなものだった。
そして最も肝心なこと。ループ後に何をしようが、12月25日のクリスマスの夜に爆発し、町が火の海になる歴史は一度も変わらなかった。

次のループを準備しようとしたとき、ユネが主人公に自分の考えを明かす。
1, ユネと主人公に飛ぶ力があるのは、Adventの日にリンゴを食べたから。エデンの園の禁断の果実の比喩で言えば、ユネが食べたのは赤い生命の実、主人公が食べたのは緑の智慧の実だ。生命の実を食べた者は「弓」となり、主人公を矢のように過去へ射る。これがタイムリープ。実際に矢を射るわけではなく、あくまで比喩でありイメージだ。

2, ユネは毎回弓を引くたび、弓がとても重いと感じる。主人公という一本の矢だけではなく、もう一本の矢も一緒に射たれているはずだ。だからユネは疑う。もう一人、毎回のループに主人公と一緒に参加している者がいて、主人公が何かをすると、その者が逆のことをして、毎回クリスマス当日の爆発を確実に起こしているのではないか、と。

そこで次のループ、主人公は「もう一人の飛躍者」を探すことに専念する。その飛躍者は敵かもしれないし、クリスマスの爆発に関わる者かもしれない。
だがそんな人物を探すのは簡単じゃない。その後の幾度ものループでも、新しい発見はあった。
1, かつて下水道で見つけた部屋には、二度と入れなくなった。 2, かつて爆弾があった場所には、爆弾がなくなっていた。 3, コトハがリンカという人物について話していた。リンカもかつて下水道であの部屋を見つけ、中でとんでもないものを見た。だがその後、規則違反で修道女に懺悔室へ連れて行かれ、戻ってから記憶を失った……見た「禁忌の資料」を覚えていないのだ。

要するに、この町の「オーロラの壁」を越えて外の世界を見ようとした者、この町の機密を知ろうとした者は数多くいて、だがみんな後になって妙に記憶を失っている。
主人公はフクロウの印の「ドラッグ」を思い出す。コトハ曰く、そのドラッグの副作用は記憶喪失だ。

つまり誰かが町の真相を知ろうとするたび、何者かが連れ去って強制的に記憶を消している。そして主人公が毎回ループで12月25日の悲劇を変えようとしても、ほぼ無駄。当たり前だ、もう一人のループ者がずっと主人公と張り合っていて、しかも相手は暗闇の中にいる。記憶喪失といえば、自分もだ。この町に来る前のことを何も覚えていない……
そこで次のループ、主人公はユネにある提案をする。もっと早い時間、たとえばリンゴを食べる前の日に飛べないか、と。
ユネが試すと、できた。そしてこのループで主人公は新しい発見をする。
まず、もう一人の飛躍者が判明する。サクヤだ。

毎回主人公を妨害するのは、このサクヤだった。主人公は驚く。サクヤはリンゴを食べていないのに、なぜ飛べる? 後に分かったのは、サクヤは去年のAdvent Dayに去年のリンゴを食べていたのだ……つまり彼女のセーブポイントは主人公より一年早く、毎回の飛躍も一年先。主人公より早く来て、準備も多くしている。道理で毎回ループしても解決しないわけだ。
だがなぜサクヤは主人公と敵対するのか。爆発は彼女の仕業なのか。まだ分からない。ただサクヤは正体が露見してから、姿を隠して二度と現れなくなった。
主人公はサクヤを探すが見つからない。新しいクリスマスが近づき、やがてAdvent Day、かつて自分とユネがリンゴを食べた日が来る。今回主人公は閃いて、まずリンゴを食べないことを選ぶ。

サクヤの正体が露見したことで、主人公の調査はより明確になり、多くの真相が明らかになる。
1, サクヤは去年のAdvent Dayにリンゴを食べ、おそらく緑の智慧の実を食べた。ならばもう一人、赤い生命の実を食べた仲間がいて、その相手が火災の主因かもしれない。 2, この町の住民はほぼ全員字が読めない……そう、読めないのだ。文字を見ても特殊な絵や記号としか思わない。町では記号やマークで内容を伝えている。これは異常だ。 3, 字が読めるのは町で主人公とあの修道女だけ。主人公は壁の外から来たから普通だが、あの修道女は町の運営者、あの監視室にいる者だろう。 4, 主人公は教会から監視室へ通じる秘密の通路を見つけ、再び監視室へ。中で名簿を見つける。町の住民のフルネームが書かれている(そう、ゲーム内では住民同士がカタカナで呼び合い、漢字はない)。さらに「観察報告」「社会実験報告書」のようなものも見つけた。

すぐに主人公が監視室に押し入ったことが修道女にバレる。修道女は最初、主人公たちを強制的に記憶喪失にしようとするが失敗。仕方なく、修道女は真相を話すことを選ぶ。
この町は実は第二次大戦前、枢軸国の同盟の間で行われた芸術に関する実験だ。より優れた芸術家を育てるため、学校を外界から隔絶した環境に建て、芸術の純粋性を損なう要素(文字を含む)をすべて排除し、生徒に純粋に芸術を学ばせ、外部の影響を一切受けないようにした。

第一世代の町はイタリアに建てられ、火災で焼失。第二世代はドイツに建てられ、第二次大戦で中止されたらしい。そして第三世代、今の町は日本の北海道付近に建てられた。
町の目的は隔絶された環境で芸術家を生み出し育てること。言語や文字の影響を受けないようにし、それを徹底するために記憶喪失系の薬の研究開発も必要だった。そうでなければそんなに多くのことを忘れさせられないし、町の人間を管理できない。
しかも町に入った者はほぼ元の名前を忘れている。だからキャラ同士の名前がカタカナだけで漢字がないのだ。ここでツッコミを入れると、ミステリー系のギャルゲーで全員カタカナ名で漢字がないなら、それは特殊な世界(仮想現実や特殊環境)を疑っていい。もちろんMOREのゲームは例外だ、あいつらは単に名前を考えるのが面倒なだけである。

つまり修道女もこの町の運営管理者で、上層部の指令に従っているだけ。ただこの町も最近立ち行かなくなってきた。運営には莫大な資金がかかり、時には町の生徒が描いた絵を競売して得た金で維持していたが、それも限界。そして第三世代の町の総責任者、日本側のとある大富豪が死んだ。この富豪は町がもう運営できないなら閉鎖しよう、閉鎖するなら芸術的なスタイルで破壊しよう、と考えた。
芸術的スタイルとは何か。『新約聖書・ヨハネの黙示録』のように、黙示録の四騎士が降臨し、天使が七つのラッパを吹き、降りかかる天災が世界を破壊し、町を最後に完全に消し去る。終末の美学の中で直接消滅させるのだ。

だがそんなことをするには、富豪自身では無理だ。そこでエデンの園で禁断の果実を食べたように、パンドラの箱を開けるように、外部の力を導入して「狂気の芸術家」を生み出そうとした。
町は外部からの志願者を一部受け入れるようになり、主人公もその一人。そして主人公自身の正体は、あの大富豪の子供でもある。音楽教師として入るのにも問題はない。主人公の進入とともに、町の多くの人が「外の世界」への憧れを抱き始める。
ますます多くの者が外の世界を探検したがり、パンドラの箱が開いたように、好奇心旺盛な者も、狂気に走る者も増える。だが町の安定のため、通常はあのフクロウの印の薬で強制的に記憶を消し、騒乱を避けていた。それでも制御は難しくなっていった。

そんな時、ある生徒が美学に特殊なこだわりを持ち始める。それがサクヤの兄、ギトウだ。彼は画廊で「黙示録」の絵を見て、画面に込められた世界破滅の衝撃を感じ、これこそ「終末美学」だと、似た芸術創作を追い求めるようになる。
実はあの『黙示録』の絵自体、第一世代の町が滅びたときに描かれたもので、ある種の継承でもあった。
『ヨハネの黙示録』と「終末美学」に沿った作品を作るため、ギトウはクリスマス当日に終末のような大爆発を起こし、これを芸術作品と称しようと決める。本来は成功するはずだった。だがそこへ時間を遡ってきた主人公が妨害し、爆弾を解体し、トンネルまで掘る。
そこでギトウは妹のサクヤを派遣して妨害させる。二人は一年前のAdvent Dayにリンゴを食べたので、飛べる時間も長い。主人公が飛ぶたびにサクヤも便乗し、準備を整えて対抗する。だから主人公が何度ループしても、ほぼ無意味だったのだ。二人はいつまでも意味のないループを繰り返す。

最終的に主人公はギトウの計画を突き止め、仲間と共に口撃で止める。妹のサクヤも肝心なところで現れ、狂った兄を止める。だが兄も疑問に思う。お前が俺の終末美学を支持しないなら、なぜ何度も飛躍を手伝ったのか。
実はサクヤはただ、飛躍の中で主人公と一緒に過ごしたかっただけ……だからこそ、ゲームは共通ルートの最初から、主人公に言い寄る唯一の女の子がサクヤなのだ。
ここでサクヤは主人公に告白する。実はこの告白が初めてではない。サクヤは随分前から主人公が好きで、だからこそ何度も飛躍に付き合った。受け入れるかどうか選べる。もちろん、受け入れなければこそ最終のTRUE ENDに辿り着く。

爆発の元凶は見つかり、問題は解決するはずだった。だが主人公はユネの異変に気づく。最初は声が出なくなり、次第に体が消え始める。
ここで主人公は悟る。ユネもリンゴを食べた。しかも赤い生命の実を。禁断の果実を食べて力を得たなら、無限に飛び続けて何の代償も払わないのはあまりに都合が良すぎる。

代償は必ずある。緑のリンゴを食べた者が飛ぶたび、赤いリンゴを食べた者が命、あるいは命と等価のものを差し出す。
ユネには綺麗な歌声があった。だから最初は声を失う。それが代償だ。だがその後、主人公がもっと早い日付に飛べと頼んだ。この消費はデフォルトの「リンゴを食べた日に戻る」をはるかに超える。だから今回求められたのは声ではなく、命だった。

ちなみにサクヤの最初の飛躍も兄の代償を消費していた。兄の代償は美的感覚のようなもの。その一部を消費したからこそ、兄は「終末美学」にのめり込んでいった。そして後のサクヤの飛躍もユネの便乗で、ユネの消耗をさらに増やした。サクヤと主人公が何度もループで張り合った結果、ユネの命が尽きたのは必然だった。
そしてユネは消えた。
だが奇跡も起きた。
覚えているだろうか。最後の飛躍で再びAdvent Dayに来たとき、主人公はユネにリンゴを食べさせなかった。では誰が食べたのか。
実は主人公が自分で赤いリンゴを食べ、緑のリンゴはアップルパイにして、クリスマスの晩餐で仲間全員に食べさせたのだ。

こうして主人公が新たに赤いリンゴを食べた者となり、ユネの代わりになった。そして緑のリンゴを食べた全員を、問題が終わった後、直接前日に飛ばす。犯人也分かったし、もう手間もいらない。クリスマスをやり直せば、何も起きなかったことになる。
主人公が赤いリンゴを食べた者になり、代償も一日分飛んだ程度で大したことはない。ユネもあの死のループから解放された。
最後は問題も解決し、ゲームはハッピーエンドを迎えた。

今回のゲームのシナリオは正直説明するのがめちゃくちゃ難しい。無理やり一言で言うならメモリリークみたいなものか? 主人公と敵対者のもう一人が、クリスマスイブの爆発の歴史を変えようとひたすらループを繰り返す。主人公は町の爆発を望まず、もう一人は爆発を望む。二人はタイムリープの中で延々と争い続け、その終わりのないリープによって、タイムリープを制御するシステムのリソースが枯渇してしまう。最終的に主人公はループから抜け出すことを選び、根本的にこのバグを修正した、というわけだ。
今回のゲームは前年の『もののあはれは彩の頃。』よりは良い出来だと思う。分かりやすいし、文化的な壁もあまりない。なにせイエス・キリストとクリスマスってのは世界中で有名だし、日本の京都の古い文化なんて日本人にしか分からんからな。シナリオの厳密さで言ってもかなり高い。ほぼすべての伏線がある程度説明されている。ただ、話の合理性で言うとやっぱりちょっと……おかしい。
例えば唯一気に入らないのが「アドベント・デイ」のリンゴの設定。これは明らかに『箱庭ロジック』っぽいSFの話で、ハイテク監視に記憶喪失の毒、隔絶された環境とかそういう要素なのに、そこに神話みたいな「禁断の果実」の設定が飛び出してくる。ちょっとちぐはぐなんだよな。でも一度その設定を受け入れてしまえば、別に完全に矛盾してるわけでもない、と思えてくるから不思議だ。

最後に感慨深いのは、脚本の冬茜トムが伏線の張り方でどんどん凄みを増していることだ。実は冬茜トムの脚本の大きな特徴は、読者の目の下に伏線を置いておいて、最後に「はい、これでした」と明かすところにある。その瞬間の「あっ、そういうことか!」という快感がたまらない。俺が「サスペンス系」ギャルゲーを遊び続ける原動力の一つでもある。今回の作品での冬茜トムの伏線設定は、以前の『ISLAND』に近づいてきている。ただ、あれと比べるとまだ少し劣る。なにせあっちはオカルトを書いてないどころか、「タイムトラベル」すら嘘だったからな。
もちろんこの作品の脚本にも欠点はある。それはテンポの悪さだ。序盤は遅くて眠くなる。中盤は各種の手がかりを明かして読者を引っ張るべきなのに、まだもったいぶっている。そして終盤になって突然、怒涛の爆発が始まる。爆発しすぎてちょっと饒舌に感じた。喋りすぎなんだよ。最後の解明パートと前半の退屈な部分を均等にできていれば、もっとずっと良くなっていたはずだ。
ゲームの音楽はなかなか面白いと言わざるを得ない。BGMが優秀というわけじゃなくて、多くのBGMがクリスマスソングのアレンジ版で、聴いていてすごく季節感がある。なにせクリスマスが近いからな。ただ、作曲した人がちゃんと版権を取っているのか、それともクリスマスソングって版権フリーなのか、それは分からん。OPとEDは正直あまり印象に残ってない。ただ聴いていて悪くないなと思った程度だ。歌詞は脚本の冬茜トムが自ら書いている。残念ながら何フレーズ聴き取れたか怪しいが、もしかしたら歌詞にもISLANDみたいにネタバレが仕込まれているかもしれない。OSTが手元に届いたら研究してみるつもりだ。

絵柄については正直めちゃくちゃ言いたいことがある。本当に本当に本当に梱枝りこに文句を言いたい。どんどん絵が下手になってる。過去の『Magical Charming』には遠く及ばない。キャラに神韻が足りないし、自分の親友でありライバルでもあるななろばはなの絵にすら負けている。あっちが描いた『もののあはれは彩の頃。』の方がよっぽど上手い。絵師の実力を測る基準は主にキャラの表情と神韻、つまり一人の絵師がキャラの喜怒哀楽や様々な表情を描き分けられるかどうかだと思っている。明らかにこの点でななろばはなは梱枝りこを圧倒している。サスペンス風のゲームなのに、梱枝りこ大先生はそれを平然と廃萌え路線に描き上げやがった。しかも全員同じ顔で、表情もたった二種類しかない。違いがほとんど分からない。挙げ句の果てに「サクヤとギドウが兄妹なのは瞳の色が同じだから」とか言い出す始末で、もう通りで吹き出したわ……誰が瞳の色なんて見てるんだよ。特筆すべきは、ゲーム本編にはエロCGが一切ないことだ。胸をはだけたシーンはあるけど、それはほとんどアート制作の一環みたいなもので、ヌードモデルみたいなもんだ。そこまでエロくもない。ゲームのエロCGは全部アフターストーリーに収められている。まあ、需要を満たすって意味ではアリなのか? ストーリーを見たい人は物語を、抜きたい人は直接CGを、と。問題は、あのCGで誰が抜けるんだよって話だが……

CVの演技は正直たいしたことない。ただこれにも色々理由がある。第一に、ゲームの最初の何回かのループは本当に眠い。見どころがない。唯一見られるのは主人公がゲーム内の他の連中に的確にツッコミを入れるシーンだが、残念ながら主人公にはCVがない。ヒロインのCVがどの新人の偽名なのかは知らないが、演技は「古参」たちに比べるとやはり見劣りする。唯一光っていたのは藤咲ウサだ。しかも彼女はゲーム内で唯一「恋愛」要素のあるキャラでもある。他のヒロインたちは主人公とほとんど恋愛的な絡みがない。「これが恋愛ゲームだ」と言われても信じられない。せいぜい女の子がちょっと多いだけだ。悲劇なのは、藤咲ウサがゲーム内でどう見ても「真・ヒロイン」で、告白の時には専用BGMまで流れるってのに、主人公ともっと一緒にいたいがために一年丸ごとループすることを厭わない、その姿には本当に感動したのに、お前は彼女を振らなきゃいけない。そうしないとトゥルーエンドに行けないんだ。マジでファックすぎる。
ゲーム自体は基本的に一本道で、いくつか分岐があって他のヒロインを先に攻略できる。選択肢の方式もそれっぽく油絵の選択になっているが、実のところ何の意味もない。ヒロインの肖像画の絵柄が浮きすぎていて、一目で誰を選ぶべきか分かるからだ……女の子に会うたびに断り続ければ、最終エンディングに到達できる。

そして一番失望したのは、ゲームに冬の雰囲気がまったくないことだ。クリスマスアレンジのBGMが数曲ある以外、「冬」の描写は雪とサンタ帽がちょっとあるだけで、他のゲームみたいに「冬」の要素を深く描き出してはいない。後半のシナリオが良かったからまだ持ったものの、光るもののないCVとCG、そして序盤の眠くなるシナリオが揃っていたら、とっくに投げていただろう。
総合的に言えば、業界が完全に終わっている今日この頃、『アメイジング・グレイス』はシナリオ重視のゲームとして、それなりに高い評価ができる。俺の要求が高すぎるのかもしれないが、今年「シナリオが読める」と言えるゲームは片手で数えられるほどしかない……いや、指の数でも足りないくらいだ。12月末にルクルが俺の顔をぶっ飛ばしてくれることに期待するしかない。あのパクリあおかなはもう半分負けてると思うけどな。

最後にゲーム内のキリスト教の導入について感慨を述べたい。実はこの作品、色々と知識が学べる。キリスト教関連の油絵、聖書のイエス・キリストと聖パウロの物語、エデンの園のアダムとイヴなどなど。しかもゲームはそれらの要素をちゃんと融合させている。これも大きな見どころだ。主人公とヒロインがタイムリープする時に食べるリンゴは、アダムとイヴのエデンの園のリンゴに対応している。そして最後のクリスマスの爆発と破滅は、ヨハネの黙示録の描写に対応している。ゲーム終盤の芸術論も、ちょっと考えさせられる余談として面白い。
修道女が主人公に問う。あなたが座っている椅子は、芸術品ですか?
主人公には分からない。ただの普通の椅子だと思う。
修道女が言う。もしその椅子を「地球と人類を支える架け橋」と名付けたら? それなら芸術品になるのでは?
修道女はさらに、とある美術館で誰かが黒縁メガネを床に落としたのに、誰も拾い上げなかった、という話もする。床に置かれたあの黒縁メガネは意図的に置かれた芸術品だと皆が思ったからだ。とてもエキサイティングな話である。この話はどうやら実話らしく、俺もTwitterで見たことがある。
時として芸術の存在は、人の心の表れ以上のものではない。椅子は椅子、メガネはメガネ。それを芸術として鑑賞しようとする心があって初めて、それらは芸術品になり得るのだろう。

ゲーム内で文字が読めない人々が、日本語を「壁画」と認識してしまったのも、同じことを示しているようだ。文字は皆が共通認識を持って初めて文字になる。そうでなければただの落書きにすぎない。
ゲームのタイトルは「Amazing Grace」。これはヒロインのユネが常に楽天主義で、神が自分を守ってくれると信じ、絶望する自分に神聖な恩寵を与えられたことを指している。
ゲーム内でもCGでそれが描かれている。消えるはずだったユネは、神から永遠の命の代名詞である金色のリンゴを授かり、復活を果たす。
一方、悪魔の作品に惑わされて町を爆破しようとした罪人ギトウは、最後に何の非難も受けず、「罪を背負ってこれからの人生で贖罪する」ことを選ぶ。この考え方もキリスト教ではよくある思想だ。アダムとイヴがエデンの園で禁断の果実を食べて以来、人間は生まれながらにして原罪を背負い、一生をかけて自分の罪を神に懺悔し、心の安らぎを得る。

そう考えれば別に間違ってはいないと思う。宗教とは時に、心の解放と束縛を与える思考法だ。多くの場合、人に善を勧めるものだ。仏教が人の一生は「苦」であり、苦しみ尽きた先に甘美が訪れ、転生して極楽を得ると説くように。キリスト教は「借金」のような仕組みを採用している。ただ、本質は同じで、これらはすべて思考上の枷にすぎない。
だが……他のことはさておき、ゲーム内で神の救済を得た者、ユネが授かったあの金色のリンゴについて言えば、一方はゲーム冒頭の伏線に対応しているが、もう一方はただ話の流れに乗っただけだ。主人公が機転を利かせて赤いリンゴを自分が食べることにして無限ループから抜け出さなければ、ユネが救われることなんてなかっただろう? 悪役の救済も、ただ自分の罪悪感に頼って贖罪しているだけで、神とは一ミリも関係ない。そして説得したのは主人公で、主人公自身もクリスチャンじゃない。

信仰や神の仕業ではなく、救いはほとんど人間自身によるものだ。ただ多くの人はそれを認めたくなくて、手柄を神に帰しているだけなのだ。
だから肝心な時は、信仰だけでなく自分自身に頼るしかない……ただ祈るだけで誰も何もしなければ、何も変わらない。
神は世人を愛すれど、あなたを愛すとは限らない。
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