サクラノ詩

『サクラノ刻』レビュー

考えてみれば、『サクラノ詩』からもう8年も経っている。 当時、俺はこのゲームにかなり高い評価をつけたし、自分の経験と重ねて共感もした。 それにこのゲームからは多くを学んだ。特に「数学」と「美術」の関係、黄金比とフィボナッチ数列の対応なんかは、「創造主」や「神」の存在を信じたくなる衝動にすら駆られて、多くの科学者が最終的に神頼みになる理由も一瞬で理解できた。 だってこの世界には不思議で神秘的で説明できないものが多すぎる。 とにかく『サクラノ詩』からは很多を得たし、このゲームは物語の面だけでも十分に面白い。むしろその面白い物語があったからこそ読み進められたわけで、話が進むにつれていろんな興味深い知識も得られた。 この物語はもう終わったと思っていた。最後の終わり方はどう続ければいいのか分からないくらいだったから。そんな時、『サクラノ刻』の噂を聞いた。 このゲームに続編があるだと?続編は何を語るのか?正直分からなかった。元の本筋であまり存在感のなかった女子学生たちの話なのか?それとも、すでに十分に完成されている「藍先生」を無理やり攻略させようというのか?主人公と彼女の家族以上家族未満の関係は良かったのに、いわゆる「攻略可能」のために無理やり恋愛劇を作るのか? まさかね?そんな陳腐なことする必要ある?そんなことしたらゲーム全体の格が下がるだけでなく、主人公のキャラまで壊してしまう。もともと御桜稟を攻略するだけでもかなり無理があると思ってた。あれは「R18ゲームの売上」への妥協だった。そこまでやる必要はないだろ? 特にその後『终の空 Remake』が発売されて、俺は『サクラノ刻』への信頼をさらに深めた。絶対に蛇足の詐欺作品じゃないし、特定のキャラを攻略させるためだけにプレイヤーに媚びるような無理やりな作品でもないと信じていた。 もちろん、『サクラノ刻』は発売された。その後の話はだいたい分かるだろ。 俺は間違っていた。しかもとんでもなく。

『終ノ空 Remake』レビュー

誰もが知るエロゲー界隈には、ある伝説が流れている。みんな口を揃えて「素晴日」は神ゲーだと言う。 だが、その「神ゲー」たる所以を尋ねると、返ってくる答えはどこか噛み合わない。 「素晴日はグロ CG がたくさんあるんだよ!」 「性転換フタナリの HCG もあるぞ!」 「暴力と性の要素が盛りだくさん!」 これを聞くと、ここで言う「神ゲー」はただ「過激なエロ」のせいで神ゲー扱いされているだけなのでは、と思えてくる。しかし「素晴日」に関してはそうでもないらしい。ネットでこのゲームの感想を検索すると、必ずと言っていいほど「非常に哲学的だが、要領を得ない」感想文が山ほど出てくる。 「非常に哲学的」というのは、多くの人が「素晴日」をプレイした後に長文を残し、その中で古代のクトゥルフ神話から後年の並行世界まで、ありとあらゆる内容を縦横無尽に引用し、あたかもこのゲームの深さが巨大な哲学書並みであるかのように語るからだ。 しかし「要領を得ない」のは、俺がそんな文章を読み終えても、結局このゲームがどんな物語なのか最後までわからなかったことだ。ただ、このゲームの脚本家が SCA 自だということだけは覚えた。 後になって好奇心から「素晴日」を試したことがある。当時日本語は読めなかったし(今も読めないが)、やったのは漢化版で、2時間ほどでゲームを閉じた。理由は簡単:つまらない。 このゲームの多くの会話は、完全に「無理やりな哲学論調の無脳な植え付け」で、実際には二人が雑談しているだけなのに、大量のいわゆる「哲学的内容」をぶち込んでいるだけ。逆にゲームの主軸は主人公がうろついて会話するだけで、それ以上ではない。 当時の俺が求めていたのは「超展開」と「世界を救うレベルの戦い」で、「素晴日」は明らかに俺の好みではなかった。 その後、幸運にも「素晴日」と同じ脚本家の『サクラノ詩』をプレイする機会があった。その頃にはもう中二病丸出しのバカ設定ゲーには飽きていたこともあり、『サクラノ詩』にはかなり高い評価を与えている。『サクラノ詩』は物語として強い印象を残した。天才同士の主人公たちの会話、どこか「傷仲永」的な展開、そして最後の少し切ない結末。ゲーム中の哲学的な議論も今なお記憶に残っている。特に「美術」と「数学」の関係についての話は、女教師の前で見事にイキるのに使えた。 そんな風に『サクラノ詩』には良い印象を持ち、評価もしているのだが、ネット上の『サクラノ詩』の評価を見て呆然とした。なぜなら、見覚えのある光景がまた目の前に現れたからだ。 ネット上の『サクラノ詩』の好評は、相変わらず大量の哲学的な文字で埋め尽くされている。ゲーム中のやや中二病的な会話、ゲーム内で引用された日本文学の断片、そして幻想に満ちた自己陶酔。 もちろん、ゲームの筋書きについての紹介はほとんどない。中にはあらすじすらないものもある。聞かないでくれ、聞いたら「ネタバレ回避」だ。しかし、ネタバレを避けたとしても、ゲームがどんな物語を語っているのかは説明できるはずだ。そうでなければ、お前がこのゲームをどれだけ褒めているかだけを見て、何を語っているのかもわからないのに、どうやって自分に合っているか判断しろというのか? これで思い出したのは、かつての「素晴日」だ。同じ感覚。そしてすぐに合点がいった。『サクラノ詩』を通して「素晴日」を見れば、それがどんなゲームかわかるはずだ。 もちろん、今に至るまで、俺は「素晴日」を再プレイしていない。

『水葬銀貨のイストリア』レビュー

『紙の上の魔法使い』というゲームへの愛着と、そのシナリオライターであるルクルへの賛辞を、俺は何度も隠さずに語ってきた。ルクルが『紙の上の魔法使い』の前に出した『運命予報をお知らせします』も含めて、このシナリオライターの凄さは本当に物語を語るのが上手いという点にある。紡ぎ出される物語はテンポも会話も、使われる言葉や文体まで、どこか優雅で引き込まれる雰囲気を纏っている。それに比べると、他のギャルゲーのシナリオライターが書く話は高校生の中二病が爆発したようにすら見える。この落差はしばしば、ルクルのゲームを遊んだ後に他の主流なギャルゲーをやると、後者の会話が馬鹿馬鹿しくてアホらしく感じられ、前者こそが物語であり映像が浮かぶのだと思わせる。これがシナリオライターの持つ「実力」というやつなんだろう。 『紙の上の魔法使い』以降、ウグイスカグラという会社はあまりにも長く沈黙していた。1年以上前にTwitterで新作をちゃんと制作していると呟いた後、2016年末に新作『水葬銀貨のイストリア』が公開され、2017年初頭に体験版がリリースされ、そして3月に一切の延期もなく発売された。幸せはあまりに突然で、ゲームが出た瞬間にすぐさまプレイ開始だ。(正規版を買いたいが、普通の転送業者を使うと税関にお茶を濁されるんじゃないかと心配で、詳しい人にルートを教えてほしい)
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『サクラノ詩 - 桜の森の上を舞う』レビュー

陳腐だと分かってるし、こんな書き方はすべきじゃないとも思うんだけど、ゲームの話をする前にちょっと昔のことを語らせてほしい。人生経験と照らし合わせてこそ、ゲームの中身もより深く感じられるってもんだ。 まずは眼差しから…… 俺がこの人生で忘れられない女性の目、その一つに小学時代のとある女子の目がある。 当時の俺は優等生だった。かなり極端な優等生で、正直なぜ自分が優等生なのかも分からなかった。授業の内容は当然覚えるべきものだと思ってたし、体育の長距離走も当然あれくらいの速さで走るべきだと思ってたし、スピーチも当然ああいうふうにやるべきだと思ってた。 理解できなかったし、分かりようもなかった。こうした俺にとっての「当然」が、他の人間にとってはどれほど難しいことなのか。 俺は他人を敵だと思ったことはないけど、こっちを挑戦対象にしたい奴は必ずいる。 ある期末試験のあと、一人の女子が飛び出してきて、強い眼差しでこう言った。 「覚えておいて。次の試験で、私は絶対に一位を取って、あなたを超えるから」 言い終わると、彼女は振り向いて走り去った。 そして次の期末試験、彼女は本当に一位になった。俺は数学で一問間違えて二位。正直これはあまり気にしていなかった。すぐ次の試験でまた俺が一位になったからだ。そしてあの女子はやっぱりあの、非常に強靭な……どこか怨みがかった目で俺を見ていた。 「なんで彼女は俺を敵みたいに見るんだ?」理解できなかった。しかしこの感覚が分かったのは、それから何年も経ってからのこと。そしてこの感覚への共鳴は、歳月が流れるほどにますます深く、鮮明になっていく……