抜きゲー
「世界は広いけど、人はみんな平等だ。女を口説くのはイケメンや金持ちの特権じゃない。何も持ってない負け組だって、女を口説く権利はあるんだよ」
「女を口説くには二つのルートがある。一つは女の好感度を稼いで彼氏の座を勝ち取り、最後に本塁打をかます」
「もう一つは……女狩りのハンターになることだ。もっと簡単に言えば、狩りってやつさ」
筋金入りの LASS アンチである俺は、初期の奈々子シリーズを除けば、LASS 社(ラッシット)のゲームはほぼ全部やっている。3Days、11eyes、少女神域、迷える二人、それにその Fandisk やら各種バージョンやら、とにかくもう色々と……
正直、少女神域で LASS が盛大にやらかして、せっかくのいい設定の物語を自己満全開の地雷に書き上げてしまって以来、俺はずっと思ってたんだよ。このラッシット、いつ潰れるんだろうな、と。
待てど暮らせど待って、ようやく迷える二人が発表されて、そんで発売延期に次ぐ延期で、で、クリアしてみたら思ってたほど地雷じゃなくて、ただただ薄っぺらくて白湯みたいな出来だった。おまけに原画がまったく力入ってなくて、ヒロインたちの乳は一人として小さくなく、目つきは一人として誘惑的でなく、H の時の喘ぎ声は一人として下品じゃない。俺はもう内心嬉しくてたまらなかったね……嬉しさのあまり花枝が震えて淫水が溢れ出る勢いだ。
ああ、別に巨乳に反応したんじゃない。ようやく分かったんだよ。このラッシット、終わるな、と。
高校の頃、聞いた話がある。うちの学校の隣のクラスに、金をもらって他人とセックスする女の子がいるらしい、と。
「ほら、あの子だよ」 当時の隣の席のやつが、隣のクラスの女の子の後ろ姿を指差して、以前俺に語っていたこの「学校の秘密」の主役を教えてくれた。
正直に言うと、その子の顔は後で見たことがある。可愛くはない。唇が厚くて、でも痩せていて、肌は白くて、ポニーテールで、よく笑っていた。
俺が一番感じたのは、こいつがそんなことをするなんて信じられない、ということだった。
『妹ぱらだいす 2』は『妹ぱらだいす』の続編だ。少なくとも精神続編ではない。
なぜそう言い切れるかというと、たぶん比較画像が一枚必要になる。
こちらが妹ぱらだいす 1 の主人公のキャラデザ:
そしてこちらが妹ぱらだいす 2 の主人公のキャラデザ:
しかも言っておくと、二つのゲームのキャラは同一人物という概念が存在しない……
ふざけんな!!!
『妹ぱらだいす』は絵柄のいい純愛系のゲームで、物語は家庭と家族愛を軸にしている。両親が旅行中、年長の兄が5人の妹の面倒を見るという話だ。
大半のギャルゲーは小説化の方向へ進んでいるが、どこか中途半端な感じがある。そう言うのは、本物の小説にはそこまで会話や日常がないのに、ギャルゲーにはあるからだ。音声がある以上、会話がなければCVの存在意義もない。だから大半のギャルゲーは好評な作品であっても、日常パートがやや冗長に見える。日常が終わってから、ようやく伏線が回収されて物語が動き出すすることが多い。
僕はギャルゲーのシナリオがより洗練されていく試みには期待しているが、驚きが来るまでは、ギャルゲー自体は普通の古典的純愛作品のほうがいい。その点で『妹ぱらだいす』はよくできている。
まず実話から。ちょっと長い。
抜きゲーとは何か?
簡単に言えば、抜き=オナニー、抜きゲーとは内容のすべてがオナニーのために存在するものだ。他のストーリー重視の18禁ギャルゲーには「ストーリーを求めてプレイする」という言い訳の布がまだあるが、抜きゲーは直接的に、シンプルに、乱暴にアナタの相棒を刺激するために存在している。
『聖 ○女 ~ ○ ○育成学園~』はまさにそういう抜きゲーで、名前の通り、学園の女生徒を手にかけてRBQにしてしまうのがゲームの目的だ。
成人してから一度も恋愛をしたことがない人間なら、多かれ少なかれ幻想に浸る「二次元妄想」の時期を経験しているはずだ。
否定するなよ。恋愛したことがあるか、認めたくないかのどっちかだ。でなきゃ……リア充のあんたが、なんで俺のブログなんか読んでるんだ?
俺にもそんな時期があった。あの頃の俺は妙に自意識が高くて、どこか距離を置いた孤高さをまとって、世界に想像を膨らませていた。
他人の恋愛話を見ると、つい胸が締め付けられる:なんであんなやつに彼女ができるんだ? なんであのカップルはいつもどこか間抜けに見えるんだ?
この世に女の子はこんなにいるのに、どうして誰も俺に気づいてくれないんだ?俺の「彼女」はまだ現れてないってことなのか?
かつて私は信じていた。自分には幼い頃からそばにいて、毎日自分から話しかけてくれる幼馴染がいるはずだと。学校では、部活で顔を赤らめながら話す女子が一人や二人いるはずだと。あるいは、ふとした偶然から、とある謎めいた少女の知られたくない秘密を知ってしまい、そこから二人だけの絆が生まれるはずだと……
女の子が瓊瑶(キョンヤオ)の小説や青春恋愛ものにハマるように、男子が見るああいったハーレム系の作品も、俺たちに夢のような理想世界を作り出してくれる。
「なぜこういう物語は俺の身に起きないんだ?なぜ俺の周りには、まだあんな女の子がいないんだ?」
ことわざにもある通り、人は自分自身を少しずつ知っていく過程で成長する。ある日鏡に映る自分を見て、「これ誰だよ、誰が好んで近づいてくるんだよ」なんて思ったとき、いわゆる「主人公補正」がこれまで一度も自分に降りかかったことがない理由も、なんとなく分かる気がする。
成長するにつれて、十分なリソースと魅力がなければ奇跡なんて降ってこないと分かるようになる。かつて見ていた夢は、振り返ってみれば現実世界が自分に突きつけてくるある種の反差と茶化しに近い。虚構はやはり虚構で、非現実的なものはどれほど美しくても現実には根を下ろせない。のめり込むほどに落差と疲れが生まれやすい。
俺は結局、そこから抜け出せた。でも、いつまでもバラ色の夢に浸ったまま、目を覚まそうとしない奴もいる。現実の挫折感には、ちょっとした幻想のクッションが要る。そんな夢がもたらす一瞬の高揚も、たぶんまた別の依存のはじまりにすぎない。
だから今日話すのは、まさにそういう幻想投影みたいな作品——
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