晴のちきっと菜の花びより

『桜ひとひら恋もよう』レビュー

Parasolがまた新作を出した。正直、Parasolにはもうそこまで期待していない。作品から特色も売りも失われているからだ。最後に爆点があったのは『晴のちきっと菜の花びより』、通称「晴菜花」だ。あのゲームは物語の論理に大きな問題があって、地雷と言ってもいい出来だった。それ以降のParasolはぱっとしない。出てくるのは小品ばかりで、適当に作ったようなものだ。設定も陳腐で、これといった見どころもない。たとえば前回の「水泳部」とか、年明け前の「彼女との恋愛日常」みたいなやつ。学校の設定をテキトーにこしらえて、ハーレムを用意して、ハーレムにはあらゆる女の子が揃っていて、自分の好みで一人選んでヤって、それで終わり。 この感じはなんだろうな……恋愛というより、風俗である。 そんなわけで今回Parasolが出した新作が『桜ひとひら恋もよう』。タイトルはどう訳せばいいのか分からない。桜の花びら一枚が恋の形?桜ひとひら恋模様?まあそんな意味だろう。しかし新作の設定を見ても、やはり興味は湧かない……ゲーム内に9歳の幼女小学生がいるのを見つけたが、よりによって攻略できない。 設定はこうだ。主人公は普通に学校に通っていたが、進学率だの経営難だのを理由に、突然別の学校に統合されることになる。主人公は納得せず、同級生たちを引き連れて抗議する、という話。 日本の少子化はますます深刻で、学校統合の設定も珍しくない。この設定は要するに、従来の「女子校が統合してくる」というのを「女子校じゃない学校との統合を拒否する」に変えただけじゃないか。何が違うんだ。焼き直しもいいところだ…… 最初は確かにそう思っていた……後にゲーム内に大きな仕掛けがあると気づくまでは。

『QUINTUPLE☆SPLASH!』レビュー

エロゲをいくつかやっていると、どうしてもシナリオの話になる。脚本の組み立て方といえば、大体二つの方向性がある。 一つはサスペンスやギャンブルで攻める方向。大きな事件を起こして、大きなカタルシスを用意する。序盤にすごい謎を敷いて、最後にすごい展開と超展開を置く。 もう一つは、ごく普通の学園恋愛日常もの。人生や勉強、部活との小さな摩擦があって、それを解決してエンディングへ、という流れだ。 個人的には前者が好きだ。でも、大きな事件は誰にでも扱えるわけじゃない。誰よりも速く走ればいいってもんでもない。サスペンスや超展開には、それ相応の脚本力が必要で、展開のテンポ、伏線の張り方、ルート間の配置、どれも密接に絡んでいる。一歩間違えれば全部が狂う。この手の作品で転んでいる人は多い。虎の絵を描こうとして犬になるパターン、あるいは話自体は悪くないのに描写力が足りなくて、謎が機能せず、何がなんだか分からないまま、せっかくの設定と物語が台無しになるパターン。 逆に二つ目ははるかに簡単だ。少なくとも適当に書いても大きな破綻はしない。二つ目のタイプでも素晴らしい話は書けるが、それは日常生活の面白さを見つけられるネタ師であることが前提だ。たとえばゆきこいめるとや大図書館の羊飼いは後者の中でもうまくやっている方だ。とはいえ、二つ目のタイプをクソに書くのもなかなか難しい。謎で綱渡りをするより、日常ものの方がよほど安定している。むしろ日常系のゲームはシナリオへの要求はもう高くない。キャラデザとCVの演技を見ている人の方が多いかもしれない。 ゲームに限らず、アニメも大体このリズムだ。シナリオで食わせるものもあれば、日常で食わせるものもある。そして前者をうまくやるのがどれだけ難しいかは見ての通りだ。艦これが超展開をやって「クソ」と言われ、ごちうさが日常萌えで「癒し」と言われる。設定の差はそれほど大きくない。ただ選んだ脚本の路線が違うだけだ。 当然、一部のゲーム会社は超展開の脚本がうまくいかなかったら、これに懲りて、日常路線に逃げて安定を取ろうとする。たとえばParasolの『QUINTUPLE☆SPLASH!』だ。

『晴のちきっと菜の花びより』レビュー

Quoraのキーボード評論家たちが議論していた問題がある。 ギャルゲーは文学か? 実はこの問題自体が問題だ。ゲームが文学かどうかを聞くのは、「人間」は「変態」かと聞くようなものだ。確かに人間には毎日舐めないと気が済まない変態もいれば、俺のようにそういうことに全く興味がない正常人もいる。 ギャルゲーはやはりGameだ。Gameである以上ストーリーがある。ただ大多数の非抜きゲーギャルゲーではストーリーに重点が置かれているだけの話で、ここに「文学」の要素が多少あるかもしれないが、それだけで文学とイコールだと言えるわけがない。 では「文学的要素」を持つGameジャンルとして、ギャルゲーにはストーリーで何とかしようとする作品が多い。このご時世、伏線も神展開もなければ「つまらない」と叩かれる。だからこそ「虐めてみたり」「死なせてみたり」「飛ばしてみたり」しないと神シナリオと呼ばれず、日常重視のものは見向きもされない、という風潮がある。 これについては2007年の中国の大学入試国語の作文のお題がすごく好きだ。「意料之外、情理之中」――予想外だが、もっともな話。 つまりどう展開しようが、どれだけ飛んでも、脳洞がどれだけ広かろうが、筋が通っていて「予想外だけど納得」と思わせられれば、その物語は成功だ。たとえ日常描写でも、生き生きと書けて、各キャラの性格が「意料之外情理之中」に達していれば、それもまた成功だ。少なくとも物語自体にハラハラ感があり、理解しやすく、無茶苦茶とも思われない。 もっと露骨に言えば、どう書くにせよ、最低限論理は必要だ。これが基本。 論理がなければ物語はちんぷんかんぷんになる。まさに『晴のちきっと菜の花びより』のように。
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