『恋する彼女の不器用な舞台』レビュー
成人してから一度も恋愛をしたことがない人間なら、多かれ少なかれ幻想に浸る「二次元妄想」の時期を経験しているはずだ。
否定するなよ。恋愛したことがあるか、認めたくないかのどっちかだ。でなきゃ……リア充のあんたが、なんで俺のブログなんか読んでるんだ?
俺にもそんな時期があった。あの頃の俺は妙に自意識が高くて、どこか距離を置いた孤高さをまとって、世界に想像を膨らませていた。
他人の恋愛話を見ると、つい胸が締め付けられる:なんであんなやつに彼女ができるんだ? なんであのカップルはいつもどこか間抜けに見えるんだ?
この世に女の子はこんなにいるのに、どうして誰も俺に気づいてくれないんだ?俺の「彼女」はまだ現れてないってことなのか?
かつて私は信じていた。自分には幼い頃からそばにいて、毎日自分から話しかけてくれる幼馴染がいるはずだと。学校では、部活で顔を赤らめながら話す女子が一人や二人いるはずだと。あるいは、ふとした偶然から、とある謎めいた少女の知られたくない秘密を知ってしまい、そこから二人だけの絆が生まれるはずだと……
女の子が瓊瑶(キョンヤオ)の小説や青春恋愛ものにハマるように、男子が見るああいったハーレム系の作品も、俺たちに夢のような理想世界を作り出してくれる。
「なぜこういう物語は俺の身に起きないんだ?なぜ俺の周りには、まだあんな女の子がいないんだ?」
ことわざにもある通り、人は自分自身を少しずつ知っていく過程で成長する。ある日鏡に映る自分を見て、「これ誰だよ、誰が好んで近づいてくるんだよ」なんて思ったとき、いわゆる「主人公補正」がこれまで一度も自分に降りかかったことがない理由も、なんとなく分かる気がする。
成長するにつれて、十分なリソースと魅力がなければ奇跡なんて降ってこないと分かるようになる。かつて見ていた夢は、振り返ってみれば現実世界が自分に突きつけてくるある種の反差と茶化しに近い。虚構はやはり虚構で、非現実的なものはどれほど美しくても現実には根を下ろせない。のめり込むほどに落差と疲れが生まれやすい。
俺は結局、そこから抜け出せた。でも、いつまでもバラ色の夢に浸ったまま、目を覚まそうとしない奴もいる。現実の挫折感には、ちょっとした幻想のクッションが要る。そんな夢がもたらす一瞬の高揚も、たぶんまた別の依存のはじまりにすぎない。
だから今日話すのは、まさにそういう幻想投影みたいな作品——